お早うございます。

2020/10/30

早いものですね。10月も、もうおしまいになりますね。私は、屋根裏部屋を片付けた時に、私が書いていた物が見つかった。捨てようかなと、思って読んでみると、もう13年前の事なのに、一向に、この世はいい方向に向いていないぞと、気づきました。それは、平成19年に「禅をきく会」での、奈良康明老師のお話であった。タイトルが「あたたかい心」であった。

13年前のできごとで、時代がバラバラになって来たような気がする。10人がてんでバラバラで生きているようで、とても幸せそうには思えない。お寺にやってきている若い人がいる。漫画を描いているという。どんな漫画を描いているかと問うと、「不合理・不条理・矛盾」の人生を考えている様子が書いてある。その若い人は、言いたいことがあっても言いません。主張したくても、叩かれるのが怖くて言いません。誰に叩かれるかは、「世の常識」に叩かれるという。世間の常識の範囲内で、流されて生きているという。なんとも、主体性のない生き方だ。自己愛の構造として、うぬぼれ屋が多い、自分に惚れている。となると、自分中心主義となり、自分にメリットがないと動かない。引きこもりが多くなり、自己顕示欲が強く、他人に共感もしない。エゴイズムの世界となりかけている。

バラバラで、若い人の付き合い方が変わって来たのか?今どきの小学生は喧嘩をしないという。「ケンカしないで仲良くなれるか」と思った。喧嘩すると、人間関係が深まって、表面的でなく、個性と個性がぶつかりあう。

仏教の世界からみると、人間が生きている社会は、つながっている社会だ。「一人で生きているぞ!!」と、威張って生きている人も、つながって生きていることに気づいていない。だから、「おかげさまで」といいあう。「ありがとう」といいあい。与え合う関係性が生まれる。そして、様々な事が、つながりあって、この人間の社会は成り立っている。

だから、全ての事は、仕事も、日々の生活の暮らしも、一生懸命生きている、働いていることは、「布施の行為」で、すべての人の布施をうけることになり、すべての人の「おかげさま」で生きていることになる。

では、どうやって正しく生きていくべきなのか。「マザーテレサ」は、一番悲しいことは、「無関心」であることと述べている。

「愛」の裏返しは、無関心だという。では、「愛」の反対は「憎しみ」だと言える。慈悲は、学べば育っていく、育てたいものだ。

私は、ここで、驚いた。実は、令和になった今も、上記のようなことが起こっている。メンバーのみんなとは言わないが、確かに存在している。

自己中心的で、自己顕示欲が強く、まるでエゴの塊の中に、埋まっているように思う。「ありがとうございます。」「おかげさまで」も、滅多に聞かない。「お早うございます。」と声を掛けても、知らんぷりしている。名前を言って、「お早うございます。」と、言えば、返ってくる。私は、常々、何故そんな人が、大人の人として、存在するのだろうかと、不思議でたまらなかった。

私は、今回、世界のパンデミックが起こったのは、「日本人よ!!  目を覚ませよ!! 」と、天からのメッセージが降りたような気がしてならない。 さて、私は何をしなければならないか、大きな使命を感じています。