当山瑞応寺では、施食会法要が勤められました。その昔は、施餓鬼法要と言っていましたね。

2025/07/22

曹洞宗は、施餓鬼法要を、毎年おつとめさせて貰っています。施餓鬼棚を出し、短冊を掲げ、施餓鬼法要の三界万礼霊を掲げ、笹の葉を掲げ、ちょうど七夕飾りのようにです。山海の供物を供え、洗い米を供えます。餓鬼道に落ちた霊魂や供養さない無縁仏に食べ物を施し供養する儀式です。お盆の先祖供養と、併せて行います。施餓鬼は、餓鬼に食べ物を供えて災いを鎮め、自分の徳を高めるための法要でもあります。

沢山の方丈様方が、本堂にて、お経を唱えながら、周り経を唱えられます。そして、鳴り物では、ドン・ジャ―ンガラーン・チーンと、「煩悩」を打ち砕くように、鳴り物が鳴ります。とても、静寂な中で、本堂の中を響きます。とても、神聖な荘厳な空気が振動します。人間の「煩悩・貪瞋痴」が打ち砕かれるようで、とても感慨深いものです。私は、その中で、ひたすら合掌します。それも、摩訶不思議なのです。目の前の方丈様方は、実は、令和の今は、昭和や大正生まれの老祖のお孫さん達の代に継承されている方丈さま達なのです。

私は、成程なぁ。こうして、代々、引き継がれ、継承していくのだなぁと、感無量になるのです。

本当に有難い事でした。

「別施餓鬼法要」と言って、檀家の方達が、先祖供養として、特別に供養されることがあります。今回は二つの家族が供養されましたので、その家族が、子ども達も、一緒にお参りして供養されます。今回も、若い娘さん達でしたので、とても、感慨深そうに、お勤めに遭遇されていました。そして、その若い娘さん達は、とても素晴らしい法要に合わせて貰えて有難うございました。と言って、帰って行かれました。ああ。日本人で良かったですね。

私は、思いましたね。日本人は、もっともっと、自分が何故、日本人として生まれたのか、そして、一人一人の「命は」何故に尊いのか、知る時が来たようですね。日本人ファーストの意味が分かるようになると思いました。