2020/03/10
今日は天気予報が当たり、もう朝から雨が降っています。大地が温かい性か、小ぬか雨です。そして、山際は、靄が立ち込めたように、視界がすっきりしません。樹々もしっぽり、温かい雨に包まれています。そうなんですね。この温かい雨の水滴が、木の芽を少しずつ膨らませるのでしょうね。桜のつぼみも、膨らんで来ましたよ。お気に入りのブログからは、川本町の谷戸の出雲コバイモの可憐な花が載っていました。この出雲コバイモの花も、いつもよりも早いとのことです。その方の俳句が又、素敵です。
「出雲小貝母 谷戸に匂う 春の土」コバイモの可憐な花が、苔の斜面に、「見てね。見てね。」と、妖精のように、飛び交っています。私は、もう。うっとりです。うふふ。「春来たらば草自ずから生ず」の禅語が浮かびます。物事は自ずからやってくるのですよ。凄いですよね。人間の計らい事を越えたところに「真理」というものがあるのです。私は、考えてしまいます。今の世の中、余りにも人間界は、便利なこと追求し、損得勘定ですぐにソロバンを弾く人、早いが勝ち、結果を早く求めたがる人、世渡り上手な人が、増えてきたのかもしれませんね。 私は、ここ亀の子を創設した時から、結果より、過程のプロセスを大切にしてきたような気がしてなりません。なぜかというと、昔のメンバーは、実に辛い人生を歩んで来た人達でした。俺たちは、社会の隅っこに追いやられて、福祉法の手立てもなかった時代だった。でも、めげずに生きてきた。そして、俺たちは、この町で、堂々と生きていけるようになった。何故そうなったかは、俺たちを見る目が、変わって来たのだと感じる。その昔は、障がい者を見る目は、町の人達も、近所の人達も、「色眼鏡」をかけて、「あの人たちは、変な人、おかしい人」と、見ていた。あの当時のメンバーは、近所の人に、挨拶をしても、そっぽ向かれて、とても悲しかったと、私は、その度に、挨拶をしているのに、相手が挨拶をしないことは、人間的として、「人として」どちらが、立派な人間だと思う。と、問いかけていた。すると、あの当時のメンバーは、「そうだね。」と、とても、素直だった。そして、何も恥じることはない、人として、「堂々と挨拶をしてもいい」。と、言っていた。
もしかして、私は、命の根っこを、今までに出会った多くのメンバーに教えてもらったのかもしれない。命の根っこは、命の尊厳なのです。メンバーの中には、自分の命の尊厳を自分で傷つけている人もいました。しかしです。自分自身の命の尊厳はの根っこは、そう簡単にり分るものではありません。自分自身の、自己と自我との葛藤が繰り返されます。自問自答し、熟慮し、熟知し、自己覚知に至るのかです。そこから逃げ出せば、自己覚知までに到達することはとても無理だと言えます。そこで、大事なことが、「あっ、そうか。」と、「気づく」心があれば、救われます。私は、「気づきは宝物」だと、思えるようになりました。そうすれば、気づくことによって、新しい世界が開けていきます。