日本語に潜(ひそ)む「仕合わせ」への道しるべ

2024/06/11

① 「いただきます」とは誰に何を感謝しているのか?

日本人は、作った人への感謝かと思うと、作ってくれたお母さんも一緒に食卓で「いただきます」と言います。それは、これから頂く食材の命に対して「いただきます」と言っています。私たちのいただく食材は、ご飯にしろ、野菜にしろ、肉にしろ、それぞれの命をもった生き物です。その命をいただいて、我々の命を助けていただくということです。

② 農耕は「God」の罰か?

日本語の「神」は、英語の「God」とは全く違います。

Godへの感謝か、食材のいのちへの感謝か、この違いはそもそもの文明の違いに起因しています。

まず、Godは、人間を自然の支配者として作りました。

旧約聖書の巻にアダムとエバの巻に書かれています。エデンの楽園で、エバが蛇に騙されて、Godが禁じていた「善悪を知る木」の実を食べてしまいます。この時にGodは食べるなと言われた木の実を食べたから、一生、苦しんで地から食物を取る。すなわち、農耕は「Godの罰」なのです。 変ですね。

③ 農耕は神事

日本列島では縄文時代から、四季折々に様々な食物をいただいていました。春には、旬を迎えるシジミやハマグリ、イワシ、ニシン。夏にはアジ、サバ、クロダイ、秋にはサケ、ブリ、等など。栗、クルミ、シイ、トチなどの木の実も採れます。

冬には、脂肪を蓄えたキジ、ヤマドリ、カモなどをいただきます。年を越すと、わらび、くず、セリ、ゼンマイ、などの若葉、若芽が採れます。縄文人たちは、こうして四季折々に様々な食物をいただいていたのです。そこから、自分たちは自然に生かされている、という生命観を持ったのも当然です。

日本神話では、天照大御神が五穀を見つけた際に「これらの物は、実際に地上で暮らしている人民が食べて生活すべきものである」と喜ばれ自ら高天原で田を耕して稲を育てられたという物語りが語られています。農耕は「Godの罰」どころか、我が国では神様が行っている神事なのです。ですから、現在でも天皇が皇居内で田植えをされて、この伝統を継承されています。

日本人が、食卓で手をあわせて「いただきます」というのは、すべての生きとし生けるものは、「神の分け命」であり、それをいただいて、我々は生かされているのだという生命観からです。

④ 「もったいない」

食事を食べ残すと、我々は「もったいない」と感じます。

「もったいない」とはどういう意味でしょう。「もったい」は「物体」、すなわち「物の本来あるべき姿」がなくなるのを惜しむ、嘆くことです。日本列島では、縄文時代から鯨を近海で捕獲し、その肉だけでなく、骨は櫛に、ひげは楽器に、内臓は薬に、とすべての部位を余すことなく利用してきました。江戸時代には、そうしたすべてをいただいた鯨に戒名までつけて、鯨塚というお墓まで作っています。供養もします。

旧約聖書では、鯨の命を「もったいない」とする生命観がありません。

⑤ 「お陰様」

「お陰様」も日本人は日常生活でよく使う言葉です。この「お陰様」も、外国人には分からないようです。

日本語の「お陰様」とは神仏など大いなるものの「陰」で庇護を受けている事への感謝が籠っています。その根底には我々一人一人が「神の分け命」であり大いなる命の一部として生かされているという生命観があります。

⑥ 「仕合せ」「仕合わせ」も、我々は日常語としてよく使いながら、そこに潜む深い世界観に気づきません。

「仕合わせ」の「し」は「する」の意味で、例えば「仕事」とは「すること」、「仕分け」は「分ける作業」を意味します。「仕組み」「仕返し」「仕打ち」なども同様です。とすれば、「仕合わせ」とは、互いに「する」行為が「合わさって」もたらされる意味を持っています。そして、我々が努力によって、築ける状態なのです。

⑦ 「仕合わせ」への道標(みちしるべ)

①~⑥のように、我々が日常生活で使う言葉には、縄文時代以来の我々のご先祖さま達が育んできた深い生命観、世界観が籠っているのです。

私たち一人一人が、世界の大局を正しく読み解くことで、厳しい時代でも豊かに暮らしていけるように、賢い国民が増えることによって、今度こそ日本を次の世代に受け継ぐことにいたしましょう。日本人の今の目的はそこに尽きます。お互いに頑張りましょうね。