2024/05/16
私は、曹洞宗ですので、この木の芽峠の話は知っていた。私はこの木の芽峠のことを聞くと、心が何故かざわめく。何故だろうかと、いつも、思う。私は歴史が大好きなので、より心がそちらに向くようです。と言うのは、木の芽峠とは、福井と敦賀を結ぶ古道にある峠です。平安時代から明治の初めまで1000年近くもの間、重要な幹線道として多くの人が行き来していました。永平寺にて体調を崩しておられた高祖(道元禅師)さまは、波多野義重(はたのよししげ)公のすすめもあり、京都にて療養をすることになりました。その道中、脇本の宿で一泊し、いよいよ木の芽峠を越える時、傍に控えていた永平寺の三世で徹通義介(てっつうぎかい)禅師さまを呼びました。そして、義介禅師さまはここで引き返し、永平寺を護るように伝えたのです。これが、高祖さまと義介禅師さまの今生の別れとなったのでした。この故事にならい、毎年この祖蹟を拝登されています。それも上山して間もない修行僧たちです。そこには、人影のない茅葺の一軒家があります。そして、少し行くと、明治11年、明治天皇が岩倉具視や大隈重信らと共に、敦賀に行かれた際に立ち寄られたらしく、案内板がある。茅葺の一軒家に戻ると、老人が作業をしている。まぁ。「お茶でもどうぞ」と言われ、立ち寄ると、囲炉裏を囲み、前川さんと言う方から、お話を伺ったと。(実は、私も、ネットで調べてみたのです。)すると、平安昔からのお話が次々と出て来たのです。紫式部の父親が越前の国史になるのに、紫式部もこの峠を通ったとか、平家が壇ノ浦で滅んで、この峠を通ったとか、戦国時代に朝倉氏と戦って、先祖は、士分を捨てたとか、その朝倉氏が信長と戦って、浅井の裏切りに遭って、秀吉らが逃げるのを手助けし、その後秀吉が柴田勝家を滅ぼした時に、秀吉が立ち寄り、功績に感激し金の茶釜と戦陣釜をくれた。関ケ原以降は徳川家の客分になり、木の芽峠の茶屋番兼関所役として、通行人の休憩所だけでなく、関所の補助的機能を果たしてきた。そして、京都と福井を往復する「蓮如上人御影道中」と永平寺の修行僧が立ち寄られる。その時のお世話が出来るか心配だなぁと、お話なさったとか。とっても、興味ある木の芽峠ですが、本当に摩訶不思議ですね。このお話は、地続きで、本当のことですものね。そう思うと、我が国、日本はずっと、ずっと、昔からのご先祖さまがずっと、地続きなのには、本当に驚きなのです。
うふふ。面白いでしょ。