我が国の、本当の姿を知らずに来ている現代の日本人

2024/04/17

私は、昨日のことですが、実は、幼なじみと、3人で、静間町和江の和江漁港の『和本』(WAMOTO)に行きました。古民家に手の会食会でしたが、とても昔懐かしいお家でした。実は私のお里の造りに、似ていました。玄関に入ると、土間があり、細長い式台があります。そして、畳のお部屋があります。私は勘定場(かんじょう場)と、行っていましたね。そして、仏間があります。かんじょう場と、仏間は、板の襖です。廊下側は、障子です。

その仏間とかんじょう場の上には、欄間があります。手前の「かんじょう場」には、書道の横額が飾ってあります。とても、立派な書道の額です。『枕剣夢凱旋』日・英・米・佛・伊・爛・佛・露

の8ケ国が漢字で書いてあります。「日本・イギリス・アメリカ・フランス・イタリア・オランダ・ドイツ・ロシア」なのです。

何故、このような額があるのか、不思議でした。すると、とんと昔のことが思い出されました。と言うのは、私が戦後生まれですので、お里の隣の幼馴染の友は、私が小さい頃には、私は黒いゴムの短靴でしたが、私の友は、赤いビニールのひもの付いた「赤い靴」でした。ちょうどあの頃、「赤い靴」の歌が流れていました。その友達のお母さんは、和江の町からお嫁さんに、戦争前に来ておられていました。とても羽振りのいいお家で、友達も、いつもフリルのついた洋服を着ていて、羨ましかったですね。うふふ。子どもながらに、和江の町は、大都会だなぁと、思っていましたね。もしかして、大田の町よりも、賑やかだったようです。

だから、和江の町には、こんな古いものもあったかもしれません。そして、和江の町は、港町でしたので、外国航路も、国内航路もあったようです。どうも、銭湯が在ったり、金貸しの金融業が在ったりと、老舗の蒲鉾屋さんも在ったりと、賑やかだったようです。

なので、調べてみました。どうも、その額は、明治35年(1902年)の日清戦争後に清国(今の中国)が外国人排斥運動に対して、8ケ国が連合軍を組織して、その声明文を日本が中心となってしたためたようです。実は、現実は明治37年2月~明治38年9月にかけて、日露戦争をしています。

だから、幾ら、同盟を結んでも、ほんの2年後にロシアと、日本は戦争したのですよ。如何に、もろいかですよね。と思うと、令和6年になっても、この中国という国は、いかに、いい加減なのか、分かりますね。しかし、昔の人達は、常に真剣勝負だったのですね。

そして、この古民家は、食事処と、民泊屋として、この物件を購入されたようでした。だから、古民家の方に聞いても、ご存じなかったですね。私がいろいろ質問するものだから、その方は、実は学芸員の方が泊まられましたが、「これは古いもので貴重なものですよ。」と、言われましたと。うふふ。「じぁ。私も大事にしてくださいね。」と、申しておきました。

お食事も、地元産の物で、とっても、美味しかったです。

うふふ。こんなに身近なところからも、日本の凄さを感じることが出来ました。有難い事です。