お早うございます。昨日は雪でしたのに、今日はお天気です。

2020/02/07

今朝は、朝早くから、道の駅瑞穂に立ち寄り、亀の子へ出勤しています。瑞穂道の駅で、私の目に留まったのが、地元の方が書かれた、「石見戦国史伝」です。作者は、昭和46年生まれで、旧瑞穂町生まれの方です。田中博一氏です。私は、どうしても地元びいきなのと、歴史本が好きなので、つい買ってしまった。そして、その本を、ほんまかいなぁ。と、読みたくなる。悪い癖が出てしまう。うふふ。案の定だった。石見銀山の戦国の世の中だった。それも、山吹城の争奪戦です。大森銀山は13世紀初頭に大内弘幸によって、発見された。開山初期の技術力では、仙の山山頂部の自然銀を露天掘りで採掘するのみであった。そのため、南北朝時代、長門探題として西行した足利直冬がこれを掘りつくし、しばらく衰退することとなる。大泳六年(1526)博多商人である神屋寿貞は大森銀山を再発見、更には間歩などの坑道採掘技術と灰吹き法の導入により採掘量は増大した。銀山旧記には20万人もの人々が銀山周辺に居住していたとも記され、戦国末期には最大の繁栄をみせている。それだけに、石見国の諸領主は大森銀山を手に入れるために激しい抗争を繰り広げた。大内、尼子、小笠原といった領主が銀山を領しては、奪われていった。

状況が変わったのは、天文20年(1551)の大寧寺の変、そして弘治元年(1555)の厳島の合戦である。刺賀長信は、大内義隆の家臣として、仙の山に隣接する山吹城に入り大森銀山を管理していた。陶隆房の反逆により大内義隆が謀殺され、その陶隆房も毛利元就に敗れ自刃した。刺賀長信の後ろ盾は、次々と失われて行った。翌弘治二年(1556)3月、毛利元就が銀山領有に向けて動き出す。吉川元春が指揮を執り、宍戸隆家、口羽通良らを率い、兵を石見国へと動かした。三久須城、矢筈城、三つ子城を降し、同五月には刺賀長信を取り込むことに成功。大森銀山は毛利が所有することとなった。こうした毛利の動きに対して、尼子方も動き出す。尼子晴久は遠征中の備前の国の兵を引き上げ、二万五千の兵をもって石見へと進軍した。その動きを知った毛利元就も宍戸隆家に兵七千を与えて救援に向かわせた。そんな状況の中に神屋寿貞の孫にあたる神屋紹策が、ここ大森銀山を訪れた。面白いことに、山吹城とその周囲は戦場となる。戦いに巻き込まれぬよう、山上に造られている。「あの者たちは銀山の領有権をめぐり戦っておりますが、本当の所有者は国人領主などではありませぬ。ここ、大森銀山の所有者は、商人である我らの神屋でございます。」「領主たちの身勝手な争いなど、我らの知ったことではありませぬ」だから、堀子達は、争奪戦は、関係なかったようです。