なんと、なぞなぞが解けてきました。

2024/03/06

私のお気に入りのブログの中に、川合町神社周辺遺跡現地公開ということで、参加してきましたと、写真を載せて送ってくれました。それは、川合町の農地区画工事にて、発掘されたものです。物部神社から南の忍原に行く途中なのです。だから、物部神社から900メートル当たりの田んぼです。どうも、縄文後期から室町までの住居跡です。結構繁栄していたようです。縄文土器や古墳も見つかったとか。硯のようなものも出土です。

私は、そうか、やっぱりでたかと、合点です。と言うのは、国譲り神話の物語りがあります。日本を建国する前に、この日本列島は、高天原族と、出雲の国族とがありました。高天原は、天照大御神がおられた、高天原勢です。今の日本列島で言えば、茨城県に当たります。今でも、その形跡はあります。鹿島神宮と、香取神宮がある処です。その高天原族の天照大御神の命により、鹿島神宮のご祭神「タケミカヅチカミ」と、香取神宮のご祭神の「経津主大神」と共に、出雲の国に天下り、大国主命と話し合って国譲りの交渉を始めた。しかし、何年たっても国譲りが出来ない状況であった。そこで、物部氏が、この川合町の豪族達と、監督官舎を建てて、「国譲り」が成立するまで、監視場所として、出雲族を、監視監督を実行した。中々、国譲りが成立せず、何度も何度も、問い詰めた。

私は、ここでなるほどなぁと、合点したのです。と言うのは、出雲人気質と石見人気質が、鮮明に分かれるところなのです。

石見の物部氏は、何度も何度も、「本当に国をゆずったのか?」と、確かめ、きつく諭した。その点、出雲族は、「おんぼらと」ハッキリしないところがあっただろう。

無事に、国譲りが、成立したのは、斐川の荒神谷遺跡に、沢山の銅鐸や鉾を納めて成立完了としたのではないだろうか。

そして、そのことを見届けて、物部神社が、今の地に建てられたのではないだろうか。いやはや、面白くなりましたよ。