山陰道開通イベントの続きです。

2024/02/28

そうそう。あの頃は、山陰本線が真正面を走り、貨物列車が通過すると、10両から15両の列車だったから、ずっと見ていましたね。そこで、この歌が出ていましたね。あの頃は、SLの汽車だったから、余計にうっとりして見ていましたね。あの頃は、石見大田という駅名でしたね。ポーと、汽笛を鳴らし、煙を吐いていましたね。

大田市全体が見えて、その真ん中辺りを、SLが走るなんていい景色でしたね。9号線も、イオンもないし、高い建物は一つもない、まるで広野原って、こうだよね。全部田んぼだった。春の季節は、緑のじゅうたんだったし、秋には黄金の田んぼだった。子どもながらに、豊かな幸せな気分だったように思う。だから、祭りは、大好きだった。野井神社は、長久町のシンボルだった。秋の祭りは、もう、子どもながらに嬉しかったものだ。「ドンドンヒャララ・ドンヒャララ」と、笛太鼓が聞こえてくると、もう、ワクワクだった。

しかし、昭和から平成になり、令和の時代を迎えて、大田市も、こうして山陰道が出来た。それも、私が子どもの頃に見ていた、景色とは大違いの大田市の風景が、目の前に広がっている。

もう、びっくりです。

ずいぶん前のことだが、昭和30年頃に、ブラジルへ移民をされた人が居た。子どもの頃に遊んだ人だった。その人が、平成元年頃だっただろうか、日本に来られた事があった。すると、あの昭和の頃の風景とは、全く違っていたので、浦島太郎の様だなぁと、語られた事がありました。

ここで、祇園精舎の鐘の声・諸行無常の響きありと、聞こえてくるようだ。  今も昔も、人の情けは変わらず、今を生きることの幸せを、かみしめて、心豊かに生きたいものですね。