紫式部の時代を想像してみると、いと面白きかなです。

2024/02/13

平安時代中期に成立した「源氏物語」作者は紫式部。文献初出は1008年。作者の紫式部にとって生涯で唯一の物語りです。それが、世界で最古の「源氏物語」は、女性作家だったのです。それも、我が国の女性だったのです。凄いでしょ。645年大化の改新からの藤原一族の北家の出自です。

973年頃に、藤原為時の次女として誕生したのが、幼名では、まひろとして登場した。

藤原為時は、藤原でも漢詩の学者で身分も低く、仕えてもいなかったので、貧乏貴族だったのです。ちょうど、国風文化盛んな頃で、大和絵やひらがなが盛んだった。その父親の元で育ったので、まひろは、小さいころから、勉強が大好きであった。984年円融天皇から花山天皇となり、この時に、父親の藤原為時は、花山天皇の漢詩の付き人になり、家計が楽になった。しかし、986年實和の変が起こり、花山天皇は天皇を退き僧侶となり、天皇は

藤原兼家の娘、超子の懐仁親王を一条天皇とした。なので。藤原為時は、仕事を失うこととなった。

995年、まひろは、23歳となっていた。その当時、疫病が大流行し、藤原兼家・藤原道隆、藤原道兼は、亡くなってしまった。なので、藤原一族の藤原道長だけが、残ったことになった。

996年、まひろは24歳となの、婚期も逸していた。この時に、父親の為時は、越前の守に任命となり、まひろも、同行する。998年、まひろは26歳となり、藤原宣孝と結婚することになる。999年、まひろ27歳の時に賢子(かたいこ)を出産する。1001年、まひろ29歳の時に、藤原宣孝は疫病で亡くなる。

藤原の道隆の娘、定子が一条天皇になり、そして、藤原道長の娘、彰子を一条天皇に嫁がせた。3人の娘を次々と天皇の后(きさき)にし、外戚となって権威を振るった。

まひろは、彰子の元に、宮つかいに上がることとなり、物語りがつづられることとなり、三条天皇に仕えて、後一条天皇につかえ、1019年に47歳で亡くなっています。藤原道長の全盛期の物語りのようです。

「この世をば わが世とぞ思う 望月の 欠けたることも なしと思えば」