おはようございます!世の中には明らかに「運のいい人」と「運の悪い人」が存在します。

2024/02/06

その違いは、☆運がいい人は、運をより多く掴める人。☆運が悪い人は、運をより多く逃してしまう人。そして、運がいい人は往々にして、自分の物事のとらえ方、軸を知っているのです。他人の尺度ではなく、自分は何をチャンスと思うのか、何を幸せと感じるのか、何が大切なのかをはっきりと自覚しています。だからこそ、幸運が目の前に巡ってくれば、すぐに気づき、とっさに掴むことが出来るのです。運のいい人たちのように、自分の軸を自覚するには、自分の潜在意識を知ることです。自分軸を持っている人は、要は、「随所に主となれば立処皆な真なり」を知り、自分の人生の主人公は自分であることを知っている人になります。という事は、常日頃の生活の姿勢が、この「潜在意識」が身についているということになり、ブレない「自分軸」が出来ています。だから、何故かいつも人間関係のトラブルに巻き込まれる人とか、何故かいつも損をしている人とか、なぜか何をしてもうまく行かない人がいているのです。

となると、私は、とうの昔に、「自分軸」を持つようになり、毎日がご機嫌な人生を送ることが出来ているのです。 どうして、自分軸を持つようになったかは、私の幼少期からの、人格の形成から始まっていたような気がする。先ずは、私の軸を形成したのは、私の5歳の時の、母親の言葉だったのだろう。「我が家のあんちゃんは、我が家の宝物だからな。」あんちゃんは、私の父親の一番下の弟だった。そのあんちゃんは、字は書けない・時計は読めない・お金の計算はできない、今で言えば、知的障がい者であった。だから、この幼少から、どんな人でも、この日本に生まれた人は、「宝物」が身についていた。二十歳の時に、母親は、2年間でいいから、長久町に帰ってこい、仕事は石東病院に栄養士として、就職を決めてあるからなだった。私も、そうか2年間だけなら、帰ってあげよう、妹も弟も、京都へ、東京へと大学生だったから、親孝行だわと、思い切り帰ってきた。

そして、石東病院に勤めだした。初めは、栄養士で入ったので、おばさん達と、一緒に現場へも出て、食事作りもした。すると、おばさん達から、さまざまな、言葉を耳にするようになった。当時の精神科は、閉ざされた、鍵のかかった部屋に入っていた。だから、病室に行こうとすると、職員は鍵を開けと入らないと、病室には入られなかった。おばさん達からは、「ここの患者さんは、飼い殺しだけな。」と。物騒な言葉が飛び交っていた。

患者さんの中には、とても面白いお話をする人がおり、私は、その患者さんと、栄養士の事務室で話込んだことがあった。そのことで、私は看護師さんから、こっぴどく叱られた事があった。たぶん、その頃から、「何か変だなぁ❔」と、厭な気持が募ってきたようだ。そして、私は栄養士だったので、患者さんの食生活が気になり、病院の配膳室を利用して、退院して、自炊をするようにと、「料理教室」をお願いした。解放病棟の患者さん達は、料理教室に参加するようになり、とても、患者さんとは、仲良しになった。そして、病院側から、医療相談室を作るからと、白羽の矢が立った。私は、折角料理教室を軌道に乗せたのに、困ったなぁと、母親に相談をした。すると、母親は、「私が、あんたのその年なら、白羽の矢が立ったのだから、やるよ。」と、「そうか。この年なら、やれるね。」と、引き受けることにした。その当時、患者さん達は、高度成長期の真っただ中だったので、「イケイケどんどん」で、疲弊困ぱいしていた。精神が疲弊し、血走った患者さんが多くいた。私は、その時に思った。

あぁ!! 高度成長期の真っただ中に放り出され、夜も寝ずに働いて、精神が錯乱していたのではないかと、高度成長期の犠牲者かもしれないと。思いはじめていました。

実は、この長い経過の中で、実にさまざまな、学びをさせてもらった。

それが、私の今を形成しているのかもしれない。

だから、後期高齢者という年齢になっても、前向きに、「遊びをせんとや生まれけむ 戯れけんとや生まれけむ 遊ぶ子どもの声きかば わが身さえこそ揺るがるれ」と、感性も磨かれてきたのかもしれない。