2024/01/29
うふふですね!こうして後期高齢者の歳を迎えると、本当にあっという間に日々が過ぎていきます。そして、不思議なことに、この島根県と言う、土地柄、大田市と言う、私の産土地が古代からずっとずっと、1000年も2000年も切れ目なく続いているという、事実に触れると、私は、摩訶不思議な古代からのご先祖様方の尊い霊に触れているようで、とても幸せな境地になるのです。面白いでしょ。私の命も、生老病死で定まった寿命を頂いているのです。だから、日々を丁寧に、今を大切に生きていけるのだなぁと、ご先祖様に感謝できます。と言うのは、昨日には、弟の1周忌の法事だったのです。弟は、昭和27年12月生まれでしたので、やっと、71歳になったばかりでした。余りにも早い旅たちでしたので、「え!! 何だったの。え!! キラ星。」のようでした。
そうか、弟は、生老病死の当たり前をいただき、定まった寿命をいただいて、「あばよ」っと「お先に逝くぜ」っと、旅立ってしまった。ほんの身内だけの1周忌でした。喪主である長男は、46歳になり、とても落ち着いてしっかりしていました。実は、弟は生前中は、長男のことをとても心配して、「この長男は、性根が無いので、困ったもんだ」と言っていました。私はその都度、「大丈夫だよ。貴方の長男は頭は賢いし、余裕があり、大物だよ。」と、常に言っていました。だから、法事の席での話題は、もっぱら、弟の誕生から、子ども時代、小学校時代、中学時代と、お山の大将で、元気いっぱいの子ども時代を過ごしていました。明治生まれのおじいちゃんに、箒を持って、叱られても、「こっちだよ。」と、逃げ足の速い弟でした。おじいちゃんが飼っていたニワトリ小屋に入り、ストローで、卵に穴を開けて、中身を飲んだとか。4つ下の従弟と、「悪さ」をしていたようです。その従弟は、懐かしく話してくれました。大学も、東京農大でしたので、応援部に入り、最終的には、応援団長になり、「大根踊り」を踊り捲ったとか。私たちの兄弟姉妹の妹が、1974年に妹がアフリカに旅立つ時に、羽田空港で、弟は応援団長のバンカラの服装で、破れ帽子を被り、学生服に高下駄、それにマントを羽織って、妹を見送ったとか。
いやはや、弟の人生は、自分が思いついたことは、全て実行に移し、実践力は抜群だった。
本当に、駆け抜けた、人生だったようだ。本当に弟は、天晴な人生を生き切ったと、姉の私は思う。
この法人を立ち上げる時も、あの当時の大田市は、「女」である私は、常に番外だった。その時に、弟には、随分と助けてもらった。弟がいたから、この法人も創設が出来たと思う。感謝・感謝でいっぱいだ。