金木犀のいい香りがします。お大師堂の前に大きくなった金木犀にお花が咲きました。

2023/10/02

お大師堂の扉を開けて、金木犀の香りを入れます。佐山88ケ所のお大師さまです。その昔は、お山の上に、一つ一つの社にお大師さまが、おられ、それを巡っていたと言う。それは、今は、みんな一堂に集められ、お大師堂に鎮座しておられます。それはそれは、見事なものです。実は、この金木犀がその位置に植えられたというのも、物語りがあります。私は、歳を重ねてきましたから、いろいろなモノが、存在することには、全て意味がある事なんだという事が、分かり始めてきました。と言うのは、つい先日、仁万町センターにて、仁万・天河内文化協会主催で、文化講演会に行ってきました。「鴨山私考」~にまと人麿~講師は渡邊捷弘(かつひろ)氏だった。実は、この方は、9月17日のしまね文芸フェスタで共にお手伝いをした、仲間でした。身近に、久手町の方なのです。

それが、柿本人麻呂の終焉の地が、斎藤茂吉が、鴨山と定めたと、記した、歌碑があり、その久手町の渡辺さんは、自分と人麿の出会いは、中学1年生(大田市立久手中学校)の遠足で三瓶登山の翌日、この歌碑を見学した時からはじまるという。その登山と言うのは、昭和29年初夏だった。その歌碑の建立が昭和28年4月というから、丁度、1周年だった。そして、今一つの出会いは大田市の「さつだやの名菓に」「浮き布」がある。

その浮き布の池に「君がため浮布池に菱採るとわが染めし袖濡れにけるかも」これは、柿本人麻呂歌集にある歌だが、妻の歌かもしれない。12歳の少年が目にした巨石の歌碑への驚嘆と感動は今も忘れ難い。

そこで半世紀が過ぎ、帰郷し晴耕雨読するなかで、読み返してみた。

やっぱり、斎藤茂吉の推察が正解ではないかと、思える、地理的背景が、よく分かる。あの時代背景は、江の川が交通路だったし、粕淵には、亀村があり、亀村に亀遊亭がある。そして、その土地のひとから聞くに、鴨山があるという。そして、面白いことに、古代の道に、五十猛町大浦が素戔嗚尊と五十猛命の上陸地との伝承がある。そこから東南の高地に一基の石碑がある。「神別れ坂」がある。それは、素戔嗚尊は>嗚尊は出雲方面へ、紀伊へ行く、五十猛命らがここで別れた。ここから、大屋~久利~川合町忍原~君谷別府(美郷町)を経て粕淵に至り、作木~三好から尾道に出たのであろう。人麿の時代より数百年前から石見の国と瀬戸内を結ぶ道は開けていたと考えてよかろう。ならば、茂吉も、この道を通ったことだろう。

面白いですね。