歴史物語は、知れば知るほど面白くなりましたよ。

2023/09/29

なぜかと言うと、私の暮らしている大田市も、長い歴史の中で、ぴかりと光る、とても重要な役割をしているからです。では、江戸時代の始まりは、徳川家康から始めましょう。関ヶ原の戦い後、ここ石見銀山は、毛利の領土でしたが、直ぐに、天領地として、徳川家康が押さえ、天領地としました。直ぐに、大久保長安が初代奉行として、大森に入っています。実際に大久保間歩がありますものね。大久保長安が馬に乗って間歩に入りましたからね。

423年も前のことです。徳川家康は、元和2年(1616年)に死去し、駿河湾に面した久能山の南斜面に久能山東照宮に埋葬されました。(第2代将軍徳川秀忠によって造営された。)1617年12月に造営した。日光東照宮は第3代将軍徳川家光の代で寛永13年(1636年)に寛永の大造替が始められ、荘厳な社殿への大規模改築が行われた。日光東照宮陽明門は、おびただしいほどの数の極彩色は、見事なものです、。一日中見ていても飽きないことから、「日暮御門」と言われている。

しかしです。何故、こんなに立派なものが出来たのでしょうか。財がなければ到底できません。実は、家康は金や銀山のあるところは、全て「天領地」にしています。だから、あの当時の石見銀山は、徳川政権の、「金庫番」だったのです。徳川家康は、実は、現在人は、日本は鎖国をしていたと、言っていますが、家康は、海外との情報は常に取っていました。実は私の大好きなフェルメールの「真珠の首飾りの少女」の絵が好きなのですが、なんと、あの少女の耳飾りは、日本の真珠なのです。あの当時、オランダとは、貿易をしていました。だから、オランダとは、どうも交易がありとても友好でした。実は、他の絵にも、日本の丹前を着ている絵があるのです。

石見銀山の資料では、世界の3分の1は、石見銀山だったようだ。

実は、石見銀山の大森にも、大久保長安と、竹村丹後の守道清が大旦那となって、1601年「勝源寺」を建てた。そして、後に徳川家康を祀る東照宮が、勝源寺の裏山に建てられた。

「たのみおく 弥陀の誓ひの しるしあり 涼しくぞゆく 極楽の道 」石見銀山奉行 竹村丹後守 辞世の句

私が生まれたころは、母親は、いつも、「権現さんが見てござるよ」と、いっていました。

幼い私は、「ごんげんさん」って、誰だろうかな。「まんまんさん・仏さん」と、思っていたようです。

随分大きくなってから、「なんだ。徳川家康殿」だったと、気づいたのでした。