世界遺産石見銀山の五百羅漢石仏は、何故作られたのか?辺鄙な大森に。

2023/09/20

不思議です。どうして、あの五百羅漢像が、500体も、あの大森に鎮座しているのか?五百羅漢完成当時の羅漢寺庭園全景の絵図を見ることができる。1766年の完成です。でも、どうして、江戸幕府の天領地といっても、江戸幕府と、石見銀山大森とは、距離も離れすぎているのにと思う。私は、これまた不思議なことだと、興味深々です。と言うのは、亀の子では、A型の就労支援事業所として、「うどん処大田」の営業を始めている。そのお店に、五百羅漢の太鼓橋の油絵がある。(作者は小原均❔)一体いつの時代のものかと気にはなっていた。

ちょうど、本屋のゲォに行った時に偶然にも見つけたました。「世界遺産石見銀山の五百羅漢石仏が語る~石見銀山と江戸との関わり~」著者は高橋悟、島根県生まれ。ふむふむ。勿論、協力の多くは石見地方及び江戸の協力者によりなされています。その内、江戸の協力者の流れとしては造営事業を始めて18年後の1762年(宝暦12年)に川崎平左衛門が大森代官に就くに及んで力を入れ、江戸の霊雲寺5世光海上人に協力を求め、それによって、田安家を始め江戸城本丸大奥の有力者などの協力を得て4年後の1766年春に成し遂げられた。

田安家は徳川御三卿の一つである。この御三卿は江戸時代が経過して将軍家(尾張・紀州・水戸)の間が疎遠になったのに伴い、御三家と同様に将軍の跡継ぎを輩出することを目的に8代将軍吉宗の時代に創設された。御三郷は吉宗の4男宗伊を当主とした一橋徳川家、9代将軍家重の次男重好を当主とした清水徳川家のことで、将軍家の庶子(しょし)という位置付けで、江戸城内にそれぞれ屋敷を与えられて住んだ。その他、御三家は家臣、領地を擁(よう)し、独立した大名であったのに対して、御三卿は家臣の多くは幕府旗本の出向で、領地と言うものは与えられず、それぞれの郷に賄領(まかないりょう)として各郷の代官が管理するなど大名と異なる独特の形を成していた。このような形体をなす御三卿である中、田安家・田安宗武の年譜がある。田安宗武は、1715年(正徳5)8代将軍になった吉宗の次男として、江戸赤坂の紀州藩邸で生まれた。~1731年江戸城田安門内に屋敷を賜り、17歳で田安徳川家を創設した。~9代将軍になった家重より、賄領10万石が与えられた。

五百羅漢造営を行う大森の羅漢寺は、霊雲寺の末寺であり、一方では日ごろから霊雲寺の僧侶は江戸幕府の祈願所としてお世話になっていること。大森代官の川崎平右衛門と良く知る仲で、田安家とは古い知り合いでもあった。そして、田安家は多くの子供が早世していた。大奥への五百羅漢造営協力の依頼は霊雲寺・5世光海上人によるものであったことから、大奥と社寺との関係があったと言える。霊雲寺の場合は、1692年、国が穏やかで安定してつづく事を祈願する寺院(祈願所)として、5代将軍綱吉時代に建立されたことから、その流れに沿って働き、江戸城・大奥とも交際をしてきている。このため江戸幕府の祈祷所(祈願所)は大奥と結びつきが深く、大奥女中の代参や、参拝も多くある。言い換えれば、仏教によって国家をしずめ守る事を担うのがお寺であるとすれば、江戸時代の国家を主導していたのは徳川家の将軍である事から、その組織に属する大奥・大奥女中が将軍家の安泰と永続を幕府が指定したお寺において公的・私的に願うのは当然と言えよう。このようなことから、江戸城大奥と寺院は密接な関係があり、大奥女中のお年寄りなどの政治力は侮りがたいものがあった。

いやはや、私たちの町にも、昔があって、現在が成り立つ、そして、過去の歴史物語も、全て、その時に生きた人々の生きた「生きざま」がある。ほんの近くなのに、その「生きざま」に触れることがなかった。

こうして、歴史物語を知ると、日本人に生まれて良かったと、あらためて感謝が溢れる。