「毅然とした態度」~戦後の日本人が失ったものだった。

2023/03/20

「海外に出たら、絶対に舐められぬな!!」~甘い態度はするな!!  「なめんなよ!!」

人になめられない強さ。相手に不徳を積ませない強さ、特に今の日本人には必要です。

そうか!!  実は、私はこの毅然とした態度は、小さい頃から、どうも身に着けていたようだ。

それは、「あんちゃんは我が家の宝物」からだった。先ず、中学校の時に、近所の小母さんが、あんちゃんを揶揄しているのを見て、その小母さんに向かって、「そんなことを言うもんじぁない!!」と、叱責していた。

そしてそして、平成3年10月(1991年)に、フランスのパリに、妹夫婦が帰省するので、遊びに来ないか?だった。私は、滅多にないチャンスだから、行こうということになり、夫と九州の姪っ子と、行くこととなった。

妹夫婦は、パリのアパートに暮らしていたので、そこで、滞在した。私は、毎日のように美術館巡りをした。ある時は、モンマルトルの丘の眺望のいい広場に出かけた。サクレ・クール寺院の近くにサルトルの広場があり、そこは、似顔絵を描くように勧められる。私は、断るのに閉口した。「ノーサンキュ」だった。しかし、夫は、注文もしていないのに、勝手に夫を描いたからと言って、夫の似顔絵だと言って、売りつけてきた。その絵を見ると、夫とは似ていない。それも、7フランだと言って、確か、1フラン=150円だったかな?となると、1050円です。

私は、「何よ。似ても居ないのに、」と。しかし、夫は、折角描いてくれたのだから、買ってやろうよ。と、同情する。それじぁ。「半額に負けてくれるのなら、買うよ!!」と、その外国の方、「渋々、半額にしてくれた。」

その外国人は、「マダムは、ケチ」「ムッシュは、貧乏」と。捨て台詞です。私も負けじと、「そんな、日本語覚えなさんな。」と。私は忘れられない思い出となった。

私は、日本人としての自覚が有ったので、何処へ行っても、堂々としておられた。イタリアへの、第7回イタリアセミナーの時もだった。尊敬する谷中輝雄先生の最後のお薦めのセミナだった。谷中輝雄は、最後の年賀状を私にしたためて下さった。「イタリアセミナーに行けて良かったね。」と。その時すでに、先生は旅立たれていた。

そのイタリアセミナーの時も、イタリアは世界遺産だらけのお国柄です。私は負けじと、2007年7月に石見銀山が登録でしたので、マスコットのらとちゃんをぶら下げて行きましたね。

2012年10月(平成24)には、北イタリアのトリエステのリハビリテーションユニット(社会協同組合)の看護士さんの、Tシャツに大きな「DA VICINO NESSULNO E`NORMALE」「ダ・ビーチノ・ネッスーノ・エ・ノルマーレ」(近くで見れば、正常な人はいない)(近くで見れば、みんな普通じぁ無いよ。)と、書いてありました。

私は、その看護士さんに、「何て書いてあるのですか?」と質問すると、通訳の人が、日本語で説明してくれました。私は、何だ。日本では、100年前に、金子みすゞが言っていた言葉だね。「みんな違ってみんないい」だねと。その事を通訳の方が言ってくれました。すると、その看護士さんは、感激して、この私とハグしてくれました。私は、「わぁ、はっは」と、「一緒だね」と、喜び合いました。後から調べて見ましたら、ローマの博物館に、この文字がパネルにして、展示してあるようなのです。うふふ。世界はおもろいですね。

そして、面白かったことは、ベネチアの町で、町角に金色の装束をした紳士のパントマイムをしていました。前には小さなコイン入れの器がありました。私は、日本から「5円玉」をいっぱい持って行きましたので、その「5円玉」をコイン入れに入れました。すると、そのパントマイムの人は、杖で、「ノー・ノー」と言って、出そうとしています。そこで、私は、「アレアレ。日本から持ってきたのよ。ご縁がありますようにと、5円玉を入れたのよ。」「あっ。そうか。ここはイタリアね。はいはい、コインを入れましょう」と言って、コインを入れました。すると、パントマイムの人は、私の腕を取って、「ハイ・ポーズ」と、写真を撮るように言います。そのやり取りを聞いていた、イタリア人は、「懐かしそうに、私は、横浜にいましたよ。」と、一緒に行った仲間と、お話が弾んでいます。なんか、素敵なふれあい広場になりましたね。