大森散策にて、芋代官さまが、お詣りした禅宗「栄泉寺」の掲示板に、「如愚如魯」と。

2022/11/25

「禅語」です。実は、「永泉寺」は、とても縁が深いお寺なのです。私の亭主が、高校生の頃に、この永泉寺の住職の時に、首座となり、僧籍の仲間入りをさせてもらった所なのです。1963年(昭和38)の事です。

話を聞くと、あの当時は、裏庭があり、石庭で、ツツジが植えて有り、立派な庭があった。その上には、先代の墓所があった。本堂も大きく、隣には客殿があった。庫裏も広く、立派な佇まいに驚いたと聞いていた。首座姿の、亭主を映した写真が、残っている。その住職のをしていた方丈様は亡くなり、その弟子をしておられた、方丈様が、住職をされるようになり、大森の町は、世界遺産登録へと、進んで行った。その若い方丈様も、托鉢姿で、大森の町を歩いておられた。2007年(平成19)にとうとう世界遺産登録となった。その後、その若い方丈さまは、急にB型肝炎が悪化して60歳と言う若さで亡くなってしまわれた。あぁ。人の世は、常ならずと、無常を感じたものだった。幸いなことに、その若さで亡くなられた方丈様の息子が、ちょうど永平寺で修行中だったのだ。その修行僧を早めに終えられ、帰ってこられた。だから、大森散策中の永泉寺の掲示板の、禅語は、その若い方丈さまの、書だったかもしれない。

「如愚・如魯」とは、『愚直という偉大な生き方』~偉大な大工は誰も見ないからと言って、キャビネットの裏側にひどい木材を使ったりはしない』実は、スティーブ・ジョブスの言葉なんですって。

誰からも、見られない所や目立たない所だから、手を抜こうと思えば抜ける。抜いたって、もしかしたら誰も気づかないかもしれない。けれども手を抜かない。

目立つところだけに一生懸命になるのではなく、自らの仕事を細部に至るまで完遂する。偉大な大工ってのは、そういうだ。「神は細部に宿る」物事を考える時に効率ばかりを優先してしまうと、それも又、裏側で手を抜くと言う結果に結びつくという結果に結びつくかも。表裏ともに愚直なまでに平等に丁寧に行うことが、平凡のようでいて、もっとも地に足が着いた生き方のような気がしますね。

「偉大」とは、案外足元に。表面ばかり取り繕って、人からどう見られるか。人の評価ではなく、自分の評価で如何に生きられるか。どうも、この禅語は、足元を看ていますね。

誰かの評価に惑わされず、自分で自分を磨き続ける。ただそれだけですね。いやはや、スティーブ・ジョブスは、やっぱり、凄い方だったですね。晩年、京都へ家族連れで来ていましたね。日本の禅寺の方丈様とも友達だった。乙川弘文だった。曹洞宗の禅僧です。奥が深い!!

私も、アップル社のアイパットを使っているが、この文明の利器を使う度に、ステープ・ジョブスを思い出す。分からなくなると、リセットする。ゼロにする。まるで、只管打坐だと思うし、無限大と零を思う。