2022/06/08
以前のことであったが、我が家がお寺であるのに、玄関に入り、印刷
物を並べて、自分の信じている宗教の素晴らしさを熱心に語りだした。我が家が禅宗のお寺であるのにも関わらず、臆することなく入信を誘った。何とか断り帰ってもらった。その事と、同じような事が、俊董尼僧の本に書いてあった。私も、お寺であるのにも関わらずと言う所が気になった。その書物には、鰯の頭も信心からという言葉があるが、実は信仰の陥りやすい盲目性と同時に、信じることによって、生み出される力の大きさがあります。「病気」は、「気を病む」と書くように心のあり様が大きく左右します。肉体が病んでいるよりも、心が病んでいる部分の方が多い病人にとっては、この種の信仰が一時的に病を克服する力となることは間違いないです。しかし、正しいか偽物かを見分ける冷静な知恵がない場合には、「ワラをもつかむ」思いで「すすめられるままに」「断れないままに」入ってしまった信仰が、正しい信仰でなかった場合、その宗教は阿片となって、人の心身をむしばみつくします。間違った教えにのめり込んだばかりに、本人の人生を狂わせてしまうばかりではなく、家族や親戚までにも迷惑を及ぼし、言葉を尽くしての説得も「法難」(ほうなん)と、称して聞く耳は全く開かれないという例は数知れません。
いやはや、私たちは、その宗教が本物か、インチキか見分ける物差しを、持ちましょうね。