2021/09/15
アハハ!とんと昔の、関ケ原の戦いの後の出来事でした。それも、この石見銀山が天領地のころのことです。
うふふ。実は、私の母親の里のご先祖さまは、武士だったと聞いておりました。私は「摩訶不思議な事だなぁ」と、思っていました。うふふ。だからでしょうかね。歴史が好きになり、歴史小説は方端から読みましたよ。勿論、お城も大好きですし、山城もすきですね。何と、我が町にも、お城が、結構あったのです。ほんの近くにも、有りますね。吉永町にも、ありました。今は、その城跡に、お寺が建っていました。確か、善林寺なのです。
1643年~1682年吉永藩に、明成の息子の明友が、再興させた。しかし、明成の父親の加藤嘉明が賤ケ岳り戦いで、七本槍の名手でもあり、徳川家康でも名声をあげて、会津藩主になっていた。父親が亡くなった後、明成が会津藩を継いでいたが、藩の財政はひっ迫していた。農民への過酷な年貢徴収の取り立てをし、寛永の飢饉も重なり、逃散する農民が2000人いたとも。父の代に仕えていた堀主水(もんど)は、そんな主君に仕えることが限界だったのだろう、一族郎党300人余りを連れて、白昼堂々と城から退去した。出奔の際に城に向かって鉄砲を撃ち放った。
そして、妻子は北鎌倉の東慶寺に入れ、自身は和歌山の高野山へと向かった。1641年君臣の礼を失くしたなどの理由で、江戸幕府は明成に引き渡した。兄弟は切腹、堀主水は、斬首となり、無念にも明成に処刑された。
明成は、北鎌倉の東慶寺に駆け込ませた妻子を、引き渡しを要求した。
これに対して啖呵(たんか)を切ったのが、東慶寺第二十世、「天秀尼」だった。
おっと、ここで、秀頼の子どもが出てきました。実は、あの戦火の中、「千姫」だけではなく、秀頼の子どもを連れだしたのが、千姫でした。その千姫が、自分の養女として、育てた「天秀尼」だったのです。その寺は、戦国時代前より、武将との縁切り寺として、建てられていた。そして、その東慶寺は、幕府のお墨付きのお寺として、庇護されてきていた。(罪人であっても、この寺で保護することができた。特権が認められていた。)
加藤明成のことを「理不尽の族(やから)」呼ばわりし。ついに、啖呵を切った。
「二つに一つ。加藤明成か!! 東慶寺か!!」「どちらかを選べ。!!」
こうして、天秀尼は大勝負にでた。養母である千姫を通して、江戸幕府にへと訴えた。
勿論、幕府は明成を切った。そして、吉永藩に移封となったのである。
そんな、とんと昔があろうとは、知らぬ仏のお富さんでした。
吉永藩に来た、明成は、子どもの明友に任せた。1682年に吉永藩は「天領地」となり、滋賀の水口藩に移封されることになった。明治の廃藩置県まで、継続されたという。
凄いでしょ。こうして、歴史はずっとずっとずっと、繋がっているのです。お終い。