2021/06/24
私は、何故、この言葉をいつも使うのだろうかと、考えてみた。どうも、人間の「命」のメカニズムだったのだ。
我が家は、お寺だったので、日常に、「禅語」が溢れている。掛軸も襖も、日常生活の中で、ごく自然に、さりげなく、威圧感もなく、無心で、ただ、そこにある。摩訶不思議ですね。この年を重ねて来て、「気づく」ことができるようになったことは、きっと、意味があることに、気づいてきたからだと思います。若い時には、自分の思い通りに行かぬ時には、興奮して、怒って、いましたね。そんな時は、我が家では、直ぐにトイレに入り、「深呼吸」をしていましたね。このことは、心と体のバランスを取っていたのだなぁと、「亀の子」でも、若い時は、「雷」を落としていましたね。その時は、心臓が高鳴り、脈拍が早くなります。それを、治めるのに、一人で自分の部屋に入り、深呼吸をします。そして、何故、怒ったのか、冷静に内観します。そして、気づきます。「あぁ。私は、対等な立場だと言いながら、上から目線だったなぁ。謝ろう。そして、次回は、こんな風に行って見よう」と。実は、ずっとずっと、この「気づき」は、私を成長させてきました。だから、今、振り返ると、怒りは、私を成長するための教科書だったのだと、気づきます。だから、今では、職員にも、メンバーの怒り、興奮、攻撃、暴言、暴力は、机上論や大学の教授や教科書から学ぶのではなく、当事者から、直接に学ぶチャンスをいただいているのですよ。と、「想いを科学する当事者学」からと、常に心掛けている。
職員も、実に、この「想いを科学する当事者学」を、しっかりと、身に着けてくれて来てくれていることは、本当に有難い事だと、感謝している。
人間の体は、「実によくできている。「身体」と「心」は、安定を嫌う。何故かというと、「心」を動かさず、じっとしていると、心がなえってしまい。ワクワクドキドキが無くなってしまう。「身体」も、動かさずじっと、とどまっていると、体は固くなり、固まってしまう。この状態を、「寝たきりまっしぐら」という状態となる。さて、人間の「心身一如」とは、こんなことを言わない。「身体」と、「心」が、バランスを取っていることに気づきませんか。心が不安定であれば、深呼吸して、落ち着いて、調和をとろうとします。となると、「心身一如」とは、心が落ち着くことにつながる。どうも、「鍵」は「呼吸」にあるときづきましたね。
「呼吸」は、体と心を一致させて、調和をとりますね。普段は、呼吸をするのに意識せずに、呼吸しています。
だから、普段の生活で、今日は「緊張していねなぁ」と、自分自身に気づくことがたいせつですね。
そして、そんな時は、落ち着いて、ゆっくりと、姿勢を正して、呼吸して見ることですね。
すると、自分自身が、人間さまだなぁと、しっかり気づきますし、人間は、こうして、自然界のひとつなのだなぁと、気づきますし、「時間」の流れを感じ、あぁ。この自然界は四季があり、春があり、夏があり、秋があり、冬があるのだなぁ。とどまる事はないのだなぁ。あぁ。そんな中で、人類も生きているのだなぁと、気づきます。
すると、こうして「生きているだけで、丸儲け」なんだなぁ。と、気づきます。うふふ。素敵な事でしょ。