お早うございます。失われた30年って、聞きませんか?

2021/05/13

これって、バブル崩壊後の日本ですね。どうも、兆しがし出したのが1991年(平成3年)です。ちょうど、平成の時代がそっくりと、30年に当たります。しかし、この30年は、バブルの毒にどっぷり浸かって、皆は、バラ色に染まって浮かれていた人も居ました。しかし、若者は、就職難で、仕事についても給料は安くて、都会地では、不夜城だと言って、残業残業で、疲労困憊、挙句の果てには、派遣社員制度が出来て、労働者は、こき使われ、要らなければ、即、首切り、企業は、安い賃金を求めて、外国に工場を、国内の工場は、外国の労働者を雇用にと、技能訓練生だと「言い訳」して。我が町の田舎でも、外国人労働者に来ていただいている。しかしだ。

今回のコロナ禍の中で、この外国人労働者も悲鳴を挙げている。そして、この30年の間に、この日本列島は、古代から続く、災害列島ですので、大きな災害が、連発している。1995年1月17日に発生した、阪神・淡路大震災は、もう大変だった。そして、同じ年の3月20日の地下鉄サリン事件も、悲鳴を挙げた。化学兵器を利用した無差別テロ事件であった。

私は、この30年の間に、この亀の子を立ち上げたことになるのだが、いつも、逆転の発想から、出発したような気がする。

今までの既存の考え方ではなく、格となるものが、有って、創造するものが大事だと、肝に命じていた。だから、あの頃は、発想の転換が必要だった。だけが為の事業なのか?誰を主とするのか? 何のためにするのか? 何を主眼とするのか? 何をするのか?

全て、「誰を、誰が、何のために、何をするのか?」だから、「誰を」は、利用者(メンバー)の意向をと、尊重した。ならば、当事者の想いを科学する事が必要だった。 あの頃のメンバーは、明確に何々したい。と言う人はいなかった。面白い事に、ちょうど、30年前のメンバーは、まるで、「他人事の人生を」仕方なしに生きて居たように思う。口を開けば、文句ばかり言って居た。「親父が悪い、先生が悪い。社会が悪い」と、不平不満をいつも、だらだらしゃべっていた。だから、「俺たちは、好きなことやっていいだろう。」と、やけっぱちになっていた。私は、あの頃、まだまだ、若かったので、そんな、彼や彼女達と、車座になって、おしゃべりをしていた。 あの30年前の、この社会は、差別偏見が横行していた。

こうして、振り返って見ると、まさに、「亀の子」の歩みだったような気がする。ゆっくりでいい、一歩一歩、自分の脚で、汗をかいて、苦労も乗り越えて、生きているって、いいね! 生まれて良かったね。生きてて良かったね。みんな、共に生きて行こうね。

は、これからも、続きますね。