2019/10/02
☆ ひめあざみ とげのやうなる おしべ立て 私のお気に入りブログからのことなのですが、ひめ薊って、何だろうかと、そのブログでは、写真が載っていましたので、直ぐにわかりました。そのひめ薊は、「オケラ」だったのです。そのオケラは、我が家の裏山にも、この秋になると、咲いていました。その前には、よく似た花で、「オヤマボクチ」が先に咲きます。そのオケラの花は、緑の棘がつぼみで、その先に白い棘のような花を咲かせます。とても、可愛いのです。この秋のお茶会のお花によく使われます。私は、この愛くるしいオケラが大好きで、いつも摘んでいましたので、とうとう、無くなってしまいました。かわいそうなことをしてしまいました。
私は、高森信子先生から、「統合失調症のひろば」日本評論社の「精神障害を持つ人の恋愛や性について」の記事の資料をいただいた。読んで欲しいのだろうと思い、読ませてもらった。その資料は、令和になった現代がのことなのです。もう、驚きでした。それも医療現場でのこと。就労支援事業所でのことです。旧態依然としての医療、支援体制には、もう驚きでした。こんなことだから、日本の精神保健福祉医療は、一向に埒のあかないことになってしまっているのだろう。この記事を読んで、恥ずかしい思いが込み上げてきた。
どうして、こんなことになってきているのか。どこに、原因があるのか。当事者を抜きにした、医療体制や就労支援体制になってしまったのか。何の権利があって、当事者を侮るようにことが発生しているのか。
それは、医療モデルから、生活者モデルに、していくことが、如何に必要であったのかを、考えなかった「つけ」が、今の令和の時代にも引きずっていることになるのだろう。しかし、もう、時代は、令和を迎え、当事者は、賢くなった。「物申す」時代に来ている。当事者の関係性も医療モデルは、治療・援助関係で、上下関係が発生し、指導管理が優先する。旧態依然であるのならば、当事者は、とても敏感に反応するようになった。現在、今日では、生活モデルとしての対応が主流であって欲しい。共に歩む支え手として、関係性を持ちたいと願う。対等目線で信頼関係が成立し、お互いに、「生きてて良かった。生まれて良かった。」と言える支援体制を整えたいものです。
あぁ。2009年10月6日発行された「精神病院を捨てたイタリア 捨てない日本」大熊一夫の書物が、私の本箱から、
「日本人は、ぼぉと。生きてんじゃ。ないぞ。」と、喝が入ってきます。