野山は、若草色に染まり、美しい自然界に包まれています。

2019/04/25

今日は、面白いメールが届きました。長南瑞生先生からです。凄いです。「絶対の幸福」についてです。

特に、絶対の幸福は、この春に、分かりやすくなるものがあるとのことです。一体、何なのでしょうね。普段の生活で、私たちは、仏教を聞く前に知っている幸福は、続かない幸福ですね。大学合格の喜びや、結婚の喜びや、初孫が生まれた喜びや、美味しいものを食べた喜びや、人生には色々な喜びがありますが、それらは一時的で、すぐに色あせます。昨日食べた料理がおいしかったと、今でも喜んでいる人は、あまりないと思います。束の間のはかない幸福です。私たちは、幸福を求めて生きていますが、そんな儚い幸福では、人間に生まれてよかったとは思えません。変わらない幸福を求めて生きているのです。その変わらない幸福を、絶対の幸福と呼び、それが仏教に明らかにされているのです。 一時的な幸せではなく、どんなことがあっても、絶対に変わらない幸福です。

実は、よく誤解があるのですが、一言で言っておくと、「ありのままを生きる」とか、「今を生きるとか」、「生かされていることに感謝」、とか、「すでに救われていることに気づく」と言うことではありません。

そんな生き方や、感謝、喜びの心は、続かないと思います。では、絶対の幸福とは、どんな幸せかと言うと、「転悪成善」(てんなくじょうぜん)といわれます。「転悪成善」とは、悪が転じて善と成るということで、苦しみがそのまま喜びになる、と言うことです。これを、「煩悩即菩提」(ぼんのうそくぼだい)ともいいます。

煩悩がそのまま菩提になります。煩悩というのは苦しみのことです。菩提というのは喜びのことです。

即と言うのは、そのままですから、苦しみがなくなって、喜びになるのではありません。苦しみがそのまま喜びに転じるのです。煩悩以外に菩提はありません。煩悩と菩提は一つです。さてさて、このように言っても、わからないと思います。分かりやすいもので例えれば、もし、秋であれば、よく例えられるのが干し柿です。干し柿というのは、甘い柿を干しても駄目で、渋柿で作ります。渋柿の渋がそのまま甘味かな。渋柿は、渋をとって甘くなるのではありません。渋がそのまま甘味になります。渋柿ほど甘くなります。渋みのほかに甘味はありません。

渋柿が干し柿になるには、時間がかかるのですが、転悪成善は、同時ですので、その点は違います。ただ、渋がそのまま甘味になるという「転ずる」とか「即」ということの一面をよく表しています。

このように、色々の苦しみが、そのまま喜びに転じてしまい、仏教に説かれている絶対の幸福は、絶対に崩れることがないのです。絶対の幸福になったとき、人間に生まれたのは、これ一つのためであったとハッキリします。

凄いでしょ。だから、「生きているだけで、立派ですよ」「生きているだけで、丸儲け」の意味が分かりましたね。 うふふ。このことは、この地球に誕生した、人類は、全てなのですよ。私は、このことを、皆さんに知らせたいなぁと、思っているのですよ。さてさて、ちょうど、明日は大田地域家族会「親和会」の総会がありますので、このお話をしようかなと、思っています。うふふ。お話する場があって、幸せです。