諸行無常の世にありて思うこと。

2019/03/04

今日は、日本人が誤解していることを述べてみたい。自分は無宗教だから、信心なんかありませんよ。信心なんか関係ありませんと言う人が多くなりました。ところが、信心というものは、そういうものではないのです。

信心とは、「心で何かを信じることなのです。「イワシの頭も信心から」と言われます。「イワシ」とは、昔は沢山とれてとれて、あまり価値がないとされていた魚です。畑にまいて肥料にまでされていたそうです。しかも、そのイワシの頭となると肉ではない、食べられない部分ですから価値のない魚の中でもさらに価値のない部分のことです。そんなものでも、自分は価値があると思って信じていれば、それはその人のしんじんだということです。ですから、心で何かを、「これは価値がある」と信じていれば、それはその人の信心だと言うことです。そもそも私たちは、何かを信じていなければ、生きてはいけません。神や仏を信じるだけが信心ではありません。何かを信じていれば、それはその人の信心です。だから、全ての人は何かの信心を持って生きています。信心と関係のない人は、一人もいないのです。そして、この世も移り変わって行きます。まさに諸行無常です。私たちの心も移り変わって行きます。全てのものに常がない。常に変わっていく。「よろずの事、皆もって、そらごと・たわごと・真実あることなし」すべてのものは、真実たよりになるものは何もないのだ。すべて裏切っていくのだということです。

ここからが、凄いですよ。一切の滅びる中に、滅びざる信心を持つことが、人生の目的なのです。「信心」というのは、無宗教の自分には関係ないということではなく、真実の信心を獲得することが、本当の生きる目的だと言うことです。私は、ここで、あぁ!私はいつも皆に、「心正しければ、事正し」と、お話し、母の辞世の言葉も思い出しました。「まちがいのない心で、おだやかな日を送らせていただきましょう。」うふふ。素敵でしょ。私もこうありたいと思っています。