2018/07/05
スピーカーを小にしていても、大音量で流れます。凄いですね。ここ大田市は、4月9日未明に発生した地震から、多くの事を学んできました。そして、これからに向かって、着々と実践舞台です。雨が降っています。
私は、沢山のメンバーと関わってきた。その一つ一つが私にとって、宝物だと感じるようになった。それは、スムーズに行かない場合や、なかなか難しい難問を抱えているメンバーについては、よりそう思うようになりましたね。そんな時は、私の頭は、理解不能に陥り、頭の中は「ぐるぐる回転しだし」元の木阿弥・水の泡・糠喜び・元の木椀と、ぐるぐるになってしまいます。お経まで出てきます。「南無大師遍照金剛」「南無大師遍照剛」・・・しばらくすると、落ち着きます。そして、元に戻って、何処がどうなのか、一つ一つの事象を、一つ一つ丁寧に、あげて行きます。というのは、思考過程がどこからどこへ行くのかで、行き止まりになるからです。私は、幸いなことに、曹洞宗のお寺ですので、溢れるほどの書物や教えの門が開いていますので、それをむさぼる様に読んできました。般若心経の中にも、出てきます。「かたよらない心。こだわらない心。とらわれない心。広く広く、もっと広く、般若心経、空の心なり」と、薬師寺の高田好胤師は説いておられます。「こだわり過ぎなさんなよ。かたより過ぎなさんなよ。とらわれないと言うことにすらとらわれすぎなさんなよ。宇宙のようにとてつもなく広い大きな心をもって生きて行きましょう。そうすれば幸せになれますよ。」と般若心経は行っているのです。凄いですね。言い換えれば、融通無碍な心、寛容な心、多面的に観る心、無執着な心をもちなさいと言うことですね。書物からもですが、先代の祖母の生き様からも、学びます。祖母は、あるがままに生きて、一事貫行で、貪瞋痴で生き抜いた尊敬する私の身近な先生でもあった。「修証義」の中にも、「人身得ること難し、仏法値ふこと希なり、今我等宿善の助くるに依りて、己に受け難き人身を受けたのみに非ず逢い難き仏法に遭い奉れり・・・・・」とあります。私は、いつも修証義の中の1節を読むと、私たちはひとり残らず、一人ひとりが尊い命をこの世に「人として生まれ」て来られた。それだけでも、奇跡のようなものだと。その一人の命は、天地いっぱいのお働きにより私たちは存在しています。天地いっぱいの総力のお働きは、人間も動物も一本の木もみな同じです。生命の尊さにおいては全く平等と仏教では説きます。ただし授かりの働きが違う。自覚する働きをいただいているのは人間だけです。しかし、そんな素晴らしい人間の生命をいただいて生まれて来ても、その尊さを説いて下さる教えに出会えなければ気づくことができない。しかし、どんな素晴らしい教えを説いてお話してくださっても、聞く側にアンテナが立っていなければ、人にも教えにも出会うことはない。「出会いは宝」は、そんなところからも言えますね。