襤褸は着ててもの続きで

2018/03/10

ふた昔のことですからね。私はまだまだ、若いって思っていましたからね。でも、平成生まれの人が知らないってことは、うふふ❣️昭和生まれの人の存在って大きいなぁ!って思いましたね。だってね。昭和生まれの人は、明治生まれの人を見ていますし、大正生まれの人も見ています。しっかりとその方達の「生きざま」を見てきています。だから、昭和生まれの人は、きちんと平成生まれの人にバトンを渡す時が来たのだなぁと思います。ふぁみりわーくのメンバーは、実に落ち着いて、私の話をじっくりと聞いてくれました。

1996年の頃は、管理棟だけは立派でしたが、作業棟は二棟とも、プレハブでした。あの頃、まだ国立病院があり、国の政策で、国立から地方自治体にと、大変な時でした。大田市立病院に移譲してからは、高等看護学校が無くなりました。「ファミリーワーク」の時には、随分と、大田高等看護学校の生徒さんには支援していただきました。亀の子 基金箱を、大田町の喫茶店に置かせて貰ったり、看護学校にも、置かせて貰いました。看護学校の学園祭には、随分とお世話になりました。看護学生さんは、「ファミリーワーク」にも、実習として見学にも来られましたね。ここでも、私は「夢の発言」をしていました。

若い実習生徒さんに、「今は、こんなプレハブで、やっていますが、いずれは、9号線の通りに、大きなビルディングにするからね。待っててね。」なんて、宣言していました。さて、話を元に戻して、1996年に戻ります。大変な時に、亀の子 村ファミリーワークに、島根県健康福祉部長が、寄られました。そして、私は精神障害福祉の現状について、無認可共同作業所の実態について、見ていただきました。すると、部長は「あんたは襤褸は着てても心は錦だねぇ❣️」と、言って下さり、私は単純ですので、凄く感激しました。忘れられませんね。そして、もう一つ、嬉しい事がありました。それは、🚾トイレに入られ、「トイレに、「にんげんだもの」がかけて、あったけど、あれはメンバーが書いたものかね。」いやいや、あれはメンバーではなく、相田みつをさんの日めくりです」「あぁ!そうか!」と、相田みつをさんの事は、ご存知ないのだと思いました。だから、毎年、相田みつをさんのカレンダーを送っていました。もう、今は送っていませんよ。「襤褸は着てても心は錦」やっぱり、人間って、心は錦は、「宝」「真心」いいねぇ❣️