命の不思議に出会えて。

2017/05/15

お早うございます。5月13日から14日にかけて、九州へ出かけてきました。高階隴仙禅師の50回忌の法事に出かけてきました。私にとっては、とてつもなく凄いことですので、その法要の末尾におらせてもらえるだけでも光栄な事です。と言ますのは、飯塚市の伊藤伝右衛門邸を見学に行ったときに、「白蓮」娘が語る燁子・長女・宮崎蕗きの本を購入していました。その書物の中に、白蓮さんと、高階隴仙禅師が写真に写っていたのです。それも、白蓮さんの葬儀には、高階隴仙禅師が行かれ、曹洞宗永平寺別院の長谷寺で葬儀が行われたと書いてありました。その書物を持っていくことができ、またその写真のページも拡げて、読経や薫香に触れることができました。

そして、この素晴らしいご縁に合わせてもらえたということは、実は、私の知らなかった過去の歴史からだと気づかせて貰えたことです。遡ること昭和20年8月15日、太平洋戦争、第二次世界大戦が終結しました。その時、夫は4月に誕生していました。あの頃でしたので、夫は「戦争に勝つ」と、言うことで、「賢勝」となったようです。そして、7月には、夫の父親の戦死の知らせがありました。お寺でしたので、僧侶の不在では、寺族は出て行かねばなりません。そこで、昭和24年に久手刺鹿の円光寺にて、高階隴仙禅師お迎えしお授戒が行われました。その時に、高階隴仙禅師の侍者として、小野山孝道師が来ておられました。その瑞応寺の惨状に触れ、その高階隴仙禅師は、侍者に「仏作仏行の人助けだ」といい、小野山孝道師は、瑞応寺に来ていただくこととなり、おかげ様で、瑞応寺は、そのまま存続することになったのでした。夫は、こんな話もしてくれました。夫が小学校1年生の時に、昭和27年のことですが、神西の十楽寺で高階隴仙禅師をお迎えしお授戒が行われました。その時、大祖母のツルノさんは、禅師さんの衣の担当を仰せつかったようです。小野山孝道師も随喜されたようです。記念撮影の時に、禅師さんが座られる曲ロクに小学1年生の賢勝が座ったとか、禅師さんは、「笑って、よしよし」と、言われたとか。大祖母は、はらはらだったとか。そして、夫には、姉がいましたので、姉弟とも、どうも禅師様と、ずっとご縁をいただいて来たようでした。今回も姉が九州の正安寺に嫁いでいますので、話を伺うことができました。姉は高校卒業後、横浜の曹洞宗の鶴見短期大学に入学し、在学中には、母親と、禅師様の別荘へお邪魔したことがあるとか、大学へは、禅師様が姉を訪ねて来てくれたとか。そして、その時に、どうも、姉に正安寺の嫁に行くがいいと暗示めいたことを言われたとか。夫も駒沢大学時代に、駒沢大学の学長室に呼び出され、禅師様にお会いしたことがあったとか。それは、小野山孝道父親が、自分の足を心配し、禅師にお願いして、名医を連れての事だった。その時に、お前さんの名前は、名前に負けているようだから、名前を、大安賢康にするとよいと言って、命名してもらった。昭和43年1月に隴仙禅師逝去され、その葬儀に夫は参列させてもらった。

こうして、振り返ってみると、過去の色々なご縁でつながっているような気がしてならない。そして、この命は継承されていくものかもしれない。逆らうことなく、その時その時を、最善で尽くしていくことが、大切なことなのかもしれない。今回も、本当にありがたいご縁をいただき、感謝でいっぱいになった。

☆ ありがたき ご縁の末尾に 加わりて

薫香に触れて 命寿ぐ  (とみこ)