名も知らぬ遠き島より流れ寄る椰子の実一つ

2017/01/18

さて、この光景は、何時のころのことでしょう。私が子供のころは、学校唱歌で、この「椰子の実」の歌を歌ったものです。

歌詞の誕生は、1898年(明治31年)夏、東京帝国大学2年だった柳田國男は、伊良湖岬の突端で1ケ月滞在していた時に、海岸に流れ着いた椰子の実をみつけた。柳田國男は、親友だった島崎藤村にその様子を話し伝えた。藤村はこの話をヒントを得て、椰子の実の漂着の旅に自分の故郷を離れてさまよう憂いを重ね、歌曲『椰子の実』の誌を読んだという。

明治時代のことですので、115年も前のことです。あの頃の海岸線は、名も知らぬ遠い島より、椰子の実が漂流していたのでしょうね。日本の童謡にも海『海は広いな大きいな』でも、海にお舟を浮かばして、行ってみたいな♪よその国♬と、遠い島やよその国に夢を馳せていました。

何時頃からでしょうか。日本海海岸は、よその国からの漂流物が増えてきました。

私が子供だった頃は、鳥井の海岸は、遠浅で、ずっと見渡す限り、白い砂が見事なものでした。

鳥井小学校があり、山の子ども達と、海の子ども達との、交流事業として、臨海学校があったように思います。

山の子達は、ワラビをとり、海の子ども達は、ワカメをとり、交換していたようです。

昭和35~40年位まで続いたのだろうか。あの頃の海は綺麗だったし、漂流物は、木切れや、日本漁師達の物が多かった。

その木切れを寄せて、高校生の頃は、キャンプファイヤーをし、テントを張って寝泊りをしたように思う。そうそう、丁度、名古屋で学生をしていたころ、伊良湖岬でキャンプをしたことを思い出す。あの頃の、海岸線も砂浜が広がり、美しかった。

それは、昭和40年頃のこと。そして、我が子を育てるころも、まだ綺麗だった。ずっと、鳥井海岸に海水浴に出かけた。

昭和64年までは、何とか子供たちを海水浴にいけることができた。平成に入って、様々なことが、様変わりするようになった。

平成の10年頃だったのだろうか。鳥井海岸の岬の漂流物には驚いた。そこで、ファミリワークの仲間と回収に行ったことがあったが、個人でするには、どうすることも出来なかった。その後、鳥井町の人たちで対策は練られているようだった。

となると、あの日本海の汚れも、平成に入ってからのことのようだ。一体。どうしたもんじゃろうなぁと、頭をひねらせている私がいます。