お早うございます。

2016/10/13

あぁ!「久に経て我が後の世を問えよ松跡偲(しの)ぶべき人も無き身ぞ」西行法師の歌です。

松の樹齢は長い。松は400年くらいだそうだから、さすがに西行が思いを託した松はすでにこの世にないだろう。が、樹木の時間から見たら、人間の一生など、くるくる移り変わるサイクルの一部に過ぎないだろう。最近の研究では、樹木には≪心≫があって樹木間で交信し、弱った仲間を助けたりもすることが明らかになった。大昔に伐採された木の切り株が、周りの樹々の根につながって、完全に死なずに生き延びていたという例もある。だとすれば、たった一人で松を友達にしていた西行は、変人というよりは物の分かった人だったのかもしれない。松にしてみれば、うごめいて死んでいく人間など、我々人間にとっての蟻のような無名の存在にすぎないだろうが、ひとときでも毎日語り合った西行のことは、「あんな奴がいたなぁ。」と覚えていたかもしれない。このことを、禅語では「感応同行」す、と言います。私は、この禅語がとても気に入り、よく使います。日本には四季があり、春には、野山には春の妖精が咲きだします。もう、嬉しくて、つい声を掛けます。この時にもね感応同行します。

うふふ。水族館に行った時も、亀さんが、泳いでいるのを見ると、「一緒だね」と、声を掛けてしまいます。

そして、人のいのちの、不思議さを、いつも感じています。うふふ。みんなは、自分の命は自分のものだと思っていますが、私は、自分の命は、2つあって、一つは意識する魂のいのちの身体と、意識しない仏か神さまからの授かりの命、心体なのではないかなぁと、思っています。だから、意識する魂の命の身体は、人間界に存在し、「生老病死」をします。もう一つは、授かりの心体ですので、肉体は滅びても、心体の魂は滅びないと思われます。だから、人類として、「死に変わり、生まれ変わり」

転生輪廻を繰り返します。 だから、新しい時代は、意識しない仏か神さまからの授かりの魂の命、心体を成熟した命に高めていくことが大切なことではないのかなぁと、思うようになりました。