2016/07/01
早いものですね。もう半分の月日が過ぎたことになりますね。ほんに光陰矢のごとしですね。
豊臣秀吉の辞世の句でも、そうとれますね。
「露とおち 露と消えにしわが身かな 難波のことも 夢のまた夢」 秀吉は、尾張中村(名古屋市)の貧しい農家に生まれたが、「武士になりたい」の野望に燃え、16歳で家出する。それまでは、毎日が田んぼと畑の往復で暮れていた。やがて自分も嫁をもらい子をそだてるだろう。それで幸福になれるのか。周囲の大人はみんな、苦しみにあえいでいる。このままの人生でいいのか。幸福をつかみたい。・・・・・・の自問が若き情熱に火をつけたのだろう。秀吉は「武士」という地位を望んだ。貧苦の中で描いた幸福像は、地位、名誉、金、財産に満たされた生活、と思ったに違いない。時は、戦国の乱世。実力がものをいう。北条早雲、斉藤道三のように、一介の素浪人から身を起こし、一国一城の主になった例もある。秀吉の夢も大きく膨らんだ。
織田信長の草履取りから出発。サルサルとあざけりを受けながらも、次第に頭角を現し、出世していく。命がけの働きが功を奏し、37歳で小谷城をもらう。名実ともに、一国一城の主である。秀吉にすれば望外の成功といっていい。早速、郷里から母と妹を城中に呼んでいる。信長の信頼を得て、秀吉の活躍は続く。しかし、主君・信長は、本能寺で明智光秀に殺されてしまう。中国制覇に向かい、岡山に陣を布いていた秀吉は、急を知るや、いち早く兵を引き、暴風雨の中を駆け抜けて、亡君の仇を討った。天下取りへの野望がうごめくのである。人は、幸福を得たら、いつまでも離したくない、と願う。しかし、現実には長続きしない。いや頂上まで上れば、あとは落ちるしか道はないことを、知っているがゆえに、不安、苦悩はつのるのである。秀吉は、大陸の野望半ばにして病没した。62歳であった。
驚くことに、20世紀は、「科学では幸せになれないことを証明した世紀」といわれます。
「万人共通の生きる目的は、苦悩の根元を破り、『よくぞこの世に生まれたものぞ』の生命の大歓喜を得て、永遠の幸福に生かされることである。」ほんとほんとですね。