2015/06/22
梅雨前線がはびこり、日本列島は大荒れしていますね。日本列島の火山も、大荒れです。口永良部島・浅間山・西ノ島・箱根山・桜島・蔵王と、火山列島です。今まででも、北海道の有珠山・全島が避難した三宅島(東京都)・昨年は御嶽山と登山者を襲った。
そんな中、この島根は大雨にも遭わず、地震にも遭わず、幸いなりと過ごすことができている。
でも、こんな地方の大田の町も、確実に、町は変わりだした。戦後70年の大田市も大きく変わって来たと言えるだろう。
大田の町の変遷を、私なりに書いてみよう。昭和22年生まれの私が知っている限りの話をしよう。
それは、1945年、昭和20年8月6日広島に原子爆弾が落とされ、この大田市も一変した。当時大田女学校(今は大田市立第一中学校)だった校舎にと、大田中学校(今は島根県立大田高等学校)の校舎に、広島で被爆された人々が運ばれて病院と化した。地元の女学生達は、駆り出され、看病に当たった。亡くなった人々は、火葬場に運ばれた。今の石東病院がその火葬場だった。
大田市役所は、神田橋南の殿町にあった。市役所界隈には重厚な山陰合同銀行(この銀行の一棟が、現在、中村ブレイスの中村ホールとして使われ、文化活動の一役を担っている)があった。その前には、大きなお屋敷の松田医院(お屋敷の一部は、和田海氏が”po”のギャラリーとして活用されている)があった。戦前と戦後までの昭和40年代までは、大田中日っあんも、賑やかな通りは、栄町から神田橋までの通りだった。そして、大田市民会館が昭和40年頃に建設されたり、神田橋の袂に大田警察署があり、その警察が大田市民会館の近くに建設されたりした。だから、警察署跡には、大田信用金庫が建てられている。大田職業安定所も大田高等学校近くの相生橋の近くにあった。だから、私が10代の子どもの頃は、大田市駅通りの方は、森閑としていた。昭和40年代に入り、その様子は一変してきた。駅通り界隈から神田橋方面が町に変容してきた。衣料品店も栄町から、駅通り方面に変わってきた。山陰合同銀行も駅通りの三叉路に移転してきた。昭和50年代に入り、橋北と橋南とに、小売店の集合体として、サンノアの大型店が、大田で初めて出来た。町は活気づいたし、初めてのエスカレーターやエレベーターが完備されて、大人も子供も、都市化を喜んだものだった。しかし、2011年10月倒産してしまった。駅通りにあった「たけはら」が創業昭和21年2月がその後、「主婦の店たけはら」と、改名し、その後大田駅通りの商店を巻き込んで、昭和57年に駅前にショッピングセンター「パル」を開業した。大田市も橋南と橋北でともに賑やかな町として変貌してきた。大田市役所も殿町にあったのが手狭になり、山崎の丘の上に昭和50年代に建設された。しかし、大田市の人口流失は、歯止めはかけられなかった。大田の町も、国道9号線沿いに、大型店が平成に成ってから、次々と建設されて行った。車社会にもなり、とうとう、今年に入り、サンノアに続いて、平成27年5月ショッピングセンターパルが潰れてしまった。
大田市も大きく変わっていく時代に突入している。さぁ。どんなに変わっても、その一員は我々の責任であることを自覚していこう。ならば、人口が少なくても、宝物ザクザクで溢れている大田市に気づいて、どんどん、することを楽しむことにしよう。他力本願ではなく、自力本願です。うふふ。素敵でしょ。お付き合いありがとうございました。