「嫌われる勇気」自己啓発の源流「アドラー」の考え

2015/02/04

では、なぜ、亀の子の朝礼と似ているのか、似ていると思うのか、ある日の朝礼風景を思い出してみたい。「みなさん、自分のことが、自分で愛していますか。自分のことを好きだと思う人は、手を挙げてみてください」と質問してみた。すると、20人位の中で、5人位が好きだとてが上がった。「では、自分のことが嫌いだなぁと思う人は手を上げてください」、すると3人位が上がった。

では、自分が嫌いだと思っている人に聞いて見ます。

自分は、自分のことが大嫌いなのに、例えば、この私(施設長)に自分のことを好きになってくださいと言えますか。すると、嫌いだと言っていた人は、「変だよね。相手に失礼だよね」と、気づいてもらいました。うふふ、よーく考えてみると、自分のことが嫌いな人が例えば彼女に、自分のことを好きになってくれと頼むのは、可笑しい事だよね。

だから、大好きな彼女が居るのなら、まず、自分を好きになって、そして、彼女を好きになるっていうのは、相手を尊重し、信頼関係も生まれてきますね。

そこで、「アドラー」心理学から言えば、自己肯定ではなく、自己受容すること、と言うことは、自己肯定とは、できもしないのに「わたしはできる」「わたしは強い」と、自らに暗示をかけることです。これは優越コンプレックスにも結びつく発想であり、自らに嘘をつく生き方であると言えます。自己受容とは、仮に出来ないのだとしたら、その「できない自分」をありのままに受け入れ、できるようになるべく、前に進んでいくことです。自分に嘘をつくものではありません。

もっとわかり易く言えば、60点の自分に「今回はたまたま運が悪かっただけで、ほんとうの自分は100点なんだ」と言い聞かせるのが自己肯定です。それに対し、60点の自分をそのまま60点の自分をそのまま60点として受け入れた上で「100点に近づくにはどうしたらいいか」考えるのが自己受容になります。肯定的なあきらめと言う言葉を使います。

課題の分離もそうですね。「変えられるもの」と「変えられないもの」を見極めるのです。

「変えられないもの」に注目するのではなく、「変えられるもの」に注目するしかないでしょう。

自己受容とは、そういうことです。

ありのままの「このわたし」を受け入れること、そして変えられるものについては、変えていく「勇気」を持つこと。それが自己受容です。

われわれは、なにかの能力が足りないのではありません。ただ「勇気」が足りていない。

すべては、「勇気」の問題です。

なるほど。なるほど。よーく考えてみると、人間は、相手が悪い、相手さえ変えて貰えれば、人間関係はうまくいくと、豪語します。しかし、よく考えてみると、相手を変えてやろうなど、とんでもない話だと言うことが分かります。あいての考えは、「変えられないもの」です。

では、「変えられるもの」は、自分なのです。

ゆっくりと、よく考えれば、案外と、シンプルだと思いませんか。

などなど、こうした押し問答を、当亀の子は、やっているのかもしれませんね。また、次の話は次にすることとしましょう。