2014/04/14
早いものですね。弥生の3月を迎えました。3月1日の土曜日の早朝の事です。
裏山から、ウグイスの初音が聞こえてきました。まだまだ幼い鳴き声に春の予感です。また、三瓶山大好さんのブログには大田市波根町の港に白鳥が飛来していると載っている。
白鳥は冬の使者としてシベリアから飛来してくる。そして春には北帰行がはじまり、シベリアへ帰っていく。凄いなぁと感心していると、その白鳥はコブハクチョウと書いてあり、島根県のコブハクチョウは海外から移入されてきたものが野生化してしまい、住み着いたようです。もしかして、松江城のお堀の白鳥なのかもしれませんね。うふふ、そんなことを想像するだけで、ロマンを感じてしまいます。実は、2月の終わりの週に、東京出張が当たり、以前から気になっていたことを確かめるために早めに出かけた。それは、定期購読している「福祉新聞」に掲載されていた『炎は消えず、瓜生岩子物語、文芸社発行、廣木明美著』だった。その瓜生岩子の座像が浅草寺公園に安置してあるのだった。その瓜生岩子は、会津が生んだ「社会福祉の母」だったのだ。私はもう驚きだったし、念ずれば、想いが届くものだと嬉しくなった。浅草寺付近のホテルに泊まったので、日参してお参りが出来た。1829年(文政12年)会津に生まれた。会津戦争敗戦の混乱期に戦病者を助け、敗戦で逃げ延びた子ども達の学校を建てようと奔走した。「賊軍の子には教育など不要」と新政府からの返事だった。見捨てる訳には行かぬと、貧困者救済に力を注ぎ、堕胎防止、捨て子防止を会津六郡全てに講演して歩いた。明治26年、岩子64歳の時、渋沢栄一からの要請で、東京養育園の幼童世話係として就任した。笑顔もなく無気力だった院の子ども達は、岩子が会津に戻る頃には、人懐っこく、陽気になって自分たちで話題を作って話が弾むようになっていた。子ども達の笑顔と生き生きとした話し声が、院全体を明るい雰囲気でつつむようになった。会津に帰り、明治26年、日本初の社会福祉事業の本部『瓜生会』を結成し、福島町育児院を創った。今の上野のアメ屋横町は、岩子が飴屋を営んでいたことでついたらしいが、第二次大戦後、アメリカからのものを闇で売っている町、アメ横が起源だと思っている人がほとんどだ。人間愛に満ちた、仏の菩薩行といわれた瓜生岩子こそ、「社会福祉の母」だった。岩子がこの世を去って116年が経って、こうして現代の我々に、その想いが継承されていると思うと、感動ものだった。いつの時代も当事者に寄り添った働きでなければ、本当の社会福祉とは言えないことを示唆している。そして、3月1日(土)の午後1時より、サンレディおおだにて、しまね自死遺族フォーラムin大田が開催された。自死遺族自助グループ「しまね分かち合いの会・虹」代表、桑原正好(くわばらしょうこ)さんの基調講演があった。自ら逝った人と、自死遺族の尊厳についてのお話であった。我が国では法律用語で明治時代から自殺となっていたが、「しまね分かち合いの会・虹」の要望により、島根県では一昨年から、行政用語を「自殺」から「自死」となった。自死への差別が、今の日本社会では非情な考えが蔓延している。自殺を穢(けが)れた死とする慣習がどれだけ遺族を苦しめているか、遺族に対してもあまりにも理不尽である。せめて遺族への負荷を少しでも減らすことで、故人に「安らかに」と手を合わせられる社会になっていきたいですね。そして、社会全体が思いやりのある社会になれば素敵だと思いませんか。