天高く馬肥ゆる秋の到来です。食欲の秋。読書の秋。運動の秋。人恋しい秋。

2020/10/21

センチメンタルな秋と、物悲しい秋と、心豊かな秋と。自然界も紅葉の秋で、三瓶のお山もお振袖を着たように裾模様が綺麗に変化していきますよ。なんてね。何見ても、うっとりとできる、所に住めるって、素敵な事ですね。現代の社会人は甘やかされて、その生活環境に慣れて、今、ここに生かされて生きていると言う実感がない人の方が多くなってきたような気がしてならない。だから、「ありがとうございます」「感謝します」という言葉をかけあうことが少ない。とても悲しい事だと言える。丁度、そう感じていたので、たまたま、日曜日だったか、こころの時代~宗教NHKで「天地いっぱい生きる」を見ることができた。それは、鳥取県の日本海が見える、山奥の安泰寺でした。もともとは、京都にあったが、戦後に鳥取の山奥を切り拓いて、建てられたとか。その安泰寺は修行僧が、半数が外国人たちです。そして、その堂頭(どうちょう・住職)は、ドイツ生まれのネルケ無方方丈です。

なんでまた、ドイツから、日本に来られたのか、不思議でした。ネルケさんは、ドイツで生まれ、リルケ家族は、教会の牧師の家庭に生まれました。小さい頃から、「何故いきているのだろうと、神様に聞いても、はっきりとした答えが返らなかった。いつも何のために生きるのだろうかと、疑問に思っていた。」16歳の時に、座禅をしないかと、誘われたが、一度目は断った。二度目も誘われたが、先生に、「今まで一度もやっていないのに、何故断るのだ。」と言われ、やることにした。先ず一回目に姿勢が変われば気分も変わることに気づいた。今までは、やりもしないで、頭だけで考えていた自分が居ることに、気づいた。頭だけにいる自分に。体があることを発見できた。多分、多くの現代人は、このことを忘れている。頭だけの、頭かぶんすだと思う。本当に生きている意味を分かるはずがない事に気づいた。この時、世界が見えてきた。19歳の時に、ベルリンで哲学と日本を学んだ。22歳の時、日本の京都大学で学んだ。そして、この時、安泰寺に来た。一挙手一投足が修行だった。何もかも、青年リルケは、驚きの連続だった。例えば、食事をするときは、黙って食べて、私語はしない。座禅、掃除、畑と、言葉では教えてもらえない。畑でも、「かぼちゃ」は、勢力が強い、何処へでも伸びる。「かぼちゃ」は、「俺が。俺が。」と、蔓延る。その時、「自分とは何者か」学ぶことだった。月に1回、5日間の接心がある。1日目から5日目と、「なんで俺がここに座っているのか?」「何故耐えるのか?」「3日目は、地獄だ。」「自己嫌悪に」「どうしたらいいか?」と、質問すると、「死ねばいい・」「死ねばいいのか」「死にそう。死にそう。死んでみよう。」。。。。

「なんだ。生きているじぁないか。」「今、生きている。」「生かされて生きている。」「悪かったなぁ。」最後の座禅だと思って座る。」「あぁ。何もかもに支えられていることに気づいた。」「天地いっぱいの我に気づいた。」実は、それは、安泰寺が伝えてきていることだった。現在も、キリギスからモスクワ大学に行っていた青年が来た。ドイツからも青年がやってきていた。安泰寺で幸せになる方法を見つけてきた。現代人は、生かされた命を知らない人が多くなった。現代は、インターネットやSNSのバーチャルな世界で、現代人の頭は、「損した、得した」「勝った、負けた」にとっぷり浸かっている。こんな現代社会では、生かされた命の事など考えたこともない現代人だ。今。ここを。気づくことが出来にくくなった。しかし、人間は、今こそ、宗教が必要だ。座禅が必要だということに気づいた。今までは、頭の中ばかりで考えることをしていた。座禅すると、今ここ。心の余裕が生まれる。天地いっぱいに生きるとは、比較の自分ではない。上か下か。いいか、悪いかではないことに気づく。「天地いっぱいの私」は、説明できない。「今ここ」事実であり、命とも表現し、宗教では「空」であらわす。生きることに意味はない。概念の話であって生の命、一呼吸一呼吸に意味を求めてもしょうがない。~今までの概念~頭の中で生きていた。

世界が見え、この世界の今ここで、虫の声、鳥の声を聴くことができる。食べる楽しさ、諸行無常の世の中、ネルケ無方は、次に堂頭を中村恵光に譲り、下山する。