うふふ。生きて行く、それも、「時を大切にして」心をときめかして。

2025/11/10

私は、この頃、とても「時を大切にして」心をときめかしてと、「今・この時、瞬間を」と、大切にするようになりました。なので、土曜日の8日は、大森町の町センター(旧裁判所跡・廃藩置県の時に天領地であった大森は、大森県となった。)で、加藤登紀子ライブ&トークが開催された。100人限定だった。私の友のFさんと、温泉津の旅館の女将さんと、出かけた。主催が石見銀山白銀会の老人クラブだった。なので、受付も、チケット切りも老人クラブの方達だった。その老人クラブの会長さんが、松場大吉産だった。彼は先頭立って、リーダシップをとっていた。受付で、私達のチケットが受け付けていない事に成っていた。「アレレ。森山です。2枚です。」と、松場の会長さん。「あっ・あげて。あげて。」と、「いやはや、ビックリ」何とか、席につく。私は、加藤登紀子さんの『「トコちゃん物語・加藤登紀子自伝・青春篇」いつも空があった』の本と加藤登紀子さんのお母さまの「本」の2冊を求めた。後からサイン会をしますとのことだった。100人限定ではあったが、とてもアットホームな会場だった。子ども達が、前の席に座っていた。その後に、老人会の方達が座っていた。子どももお年寄りもいる会場はとても豊かで、ちても暖かい雰囲気があった。そして、今日の開催に当たって、老人会の松場さんの挨拶があり、おばあちゃんの注意説明もあり始まった。第一部は、「えっちゃんのせんそう」のアニメが放映された。それは、満州のハルビンでの話であった。そのハルビンでの、日本の終戦があり、引き揚げの物語りで、やっと、博多の港に着いたお話だった。それが、80分あった。その後に、加藤登紀子さんのライブ&トークがあった。2時45分から4時まであった。加藤登紀子さんは、そのハルビンで生まれて。1943年(昭和18)12月27日に誕生です。そして、1945年8月15日終戦で、日本が負けたということで、日本人は帰国することになった。

ハルビンから、収容所に入り、1946年10月から、いよいよ、日本に帰る旅が続いた。橋が流れ、向こう岸からは、線路だけが続いていた。やっと、小舟で線路だけの道にたどり着き、そこからは歩いて行くしかなかった。それまでは、トコちゃんは、お母さんに負んぶしてもらっていたが、「トコちゃん。歩かないと死ぬことになるよ」と、母親の言葉で、歩くことに成る。トコちゃんは、2歳と10ケ月のトコちゃんも母親の声で、必死で歩いたことに成る。母親はその分、荷物を負えることになったのである。いやはや、本当にあった話であったし、あの時代は、どこの家族でも、日本中の人が厳しい体験を経験した時代だったのです。そういえば、我が家の両親もそんなことを言っていましたね。父親は、「僕の友達は戦死したりして、日本に帰れなかった者が何人もいる。俺は九死に一生を得て、帰ってこられた。その分、友達の分も生きて行かんとな。」「俺が帰ってこられたから、お前たちが生まれたのだぞ。」母親も言っていましたね。どんな子どもであろうと、「宝物」だからね。と。私が嫁いだ森山家も散々だった。森山家の、今の私の旦那のお父さんは必死だった、戦死していたのです。本当に七転八倒の時代だったようです。ということは、あの時代は、どの家も厳しい体験を経験した時代だったのです。何故か、胸がじぃーんと来ましたね。そういえば、嫁ぎ先の大祖母も、言っていましたね。「なぁーに。あの頃は皆が大変な時だったからね。みんなが、一生懸命だったからな。」「文句を言うもんは居らんかったな。

そうなんです。今の日本人達は、覚醒する時が来たような気がします。