お早うございます。嬉しいですね。今日はお日様があたり光輝いています。

2020/04/14

こんな日は、とっても気持ちのいい日になります。実は、この間の土日は、武漢コロナウイルスのために、我が家で自粛していました。自粛といっても、我が家で過ごすことですので、やることはいっぱいあります。先ずは、私のお部屋の本棚の整理をする事にしました。私は、毎年の手帳をずっと、保管していましたので、全部片づけます。毎年の年賀状も保管していましたので、それも、全部片づけます。アルバムも、ここ最近は、冊子にするようにしましたので、その前の写真も全部、まとめました。そして、私はもう長い事日記帳をつけていましたので、それもまとめて、保管です。本当に、お陰様で、こうして、歳を重ねて来られたことは、有難いことなのです。実は、その中に、私の人生に、勇気と方向性を示唆してくださった、先生から、沢山の「書物」が届いていたのです。もう、何冊も出てきました。今日は、その中から、なるほどなぁと、思うことがありましたので、書いてみることにします。何故その事を書いてみようかと思うかは、実は、当亀の子には、沢山のメンバーさんが利用しています。おかげさまで、亀の子は、メンバーさんの希望により、それぞれの事業所を、自分でチョイス(選択)して、自分で決めて(自己決定)、それぞれの所で、力量発揮です。それのが、自己責任となります。そして、生きていく勇気と自信をつけていきます。これが、自己実現となり、これで、力がついたから「仕事」に出たいというメンバーは、一般就労に行く人もいます。もう、何人も何十人も一般就労に就いています。

私達職員は、日々、その支援に向けて頑張っているところなのです。だから、毎日が、一人一人に、目を向けて、あぁ。でもない。こうでもない。と、悪戦苦闘しながら支援体制を整えているところです。

ここ最近のメンバーの中には、自由だから何してもいいでしょ。とか、食べ物にしても、それは、嫌いですから、入れないでください。とか、作業にしても、その作業は嫌いですからしませんとか、やりませんと言って、拒否をするとか、こだわりがあって、不衛生になっても、変えようとしない、指摘しても、頑固に固辞し、しないで済ませようとするなどと、どうも、平成生まれの年代の人達が目立って、このような事を発言するようになってきていることに気づいた。何故そんな風になったのか、と、不思議に堪らなかった。

私は、この書物の中に、自由とは、本来、心の問題であって、物が自由に買える、行動が思う通りになるというものではない。と記してありました。心の自由を得た人は、肉体とか物について、とらわれが少ないものです。物が自由になったところで、私たちの心は決して満足しないものです。だから、自由は、とらわれから解放された状態を指します。執着心(とらわれの心・こだわりの心)・自己限定の想念(わがまま・自分勝手・自己中心)を有する場合には、「自由だから何してもいいでしょ」には、当てはまらないことになります。食べ物の好き嫌いも、自由のはき違えをしていることになります。ここで、叱責した場合に、素直に聞けるか聞けないかは、とても、大きな違いが出てきます。父母に感謝できない人は、人にも感謝ができません。不平不満が絶えず、災いを引き起こします。不自由の上塗りをしていくことになります。感謝できる心は、謙虚さであって、謙虚は心の自由を広げていくものです。責任とか義務が必要以上に覆いかぶさってくることはありませんし、能力の範囲の中で、過ごすことができるものです。

反対に、おごる心があって、増上慢(天狗になって)揺れてきますと、常に人より背伸びして生きなければならず、それだけその人を

苦しめ、心の自由性を縛り続けていきます。すると、自由とか不自由は、執着の大小にかかわっていることであり、中道に心の針を向けて、その法に生き方を満たしていけば、不自由から自由になっていくことが出来ます。

老いても一日一生の心を持つ人は自己限定や既成概念にふりまわされることは、少ないでしょう。

生命は暦年齢に関係なく、既成概念に囚われなければ老いることはなく、常に若く、お与えられた環境の中で精一杯生きられるということになります。素敵な書物が沢山出てきましたので、その先生を忍びながら、読んだところでした。その先生も、令和の元年に亡くなられました。私の恩人でもありましたので、あぁ。「出会いは宝」であったなぁと、合掌でした。