敵を知り、己を知る。孫子の兵法をよく唱えるメンバーがいた。

2024/07/04

もう、随分前の事です。昭和15年生まれの彼は、「敵を知己を知れば百戦危うからず。」と、言っていた。私はこの言葉が妙に納得していた。だから、メンバーにも使った。先ず己を知ることに集中した。と言うのは、30年前のメンバー達は、作業をしていても、「されられ作業」だった。させられ作業とは、命令されて、仕方なしにする作業だから、気持ちは、「あっち」に行っていた。あっちに行くということは、「心」が「あっち」だから、実が入らないから、作業も「いい加減」で「やったこと」だった。要は、命令とは、「上から目線」で、「あれしなさい。」「これしなさい」だ。そりぁ。しない筈だった。そこで、私は考えた。どうしたら、「されられ作業」から「己が自らやる作業」になるか。あの頃の地域社会は、障がい者は、「厄介な人」「ダメな人」「つまらん人」と、社会の隅っこに追いやられていた。だから、大方のメンバー達は、「どうせ。僕らは要らんもんだ」と、ネガティブでいじけていた。地域社会の人も、そんなメンバーを差別し偏見が横行していた。そして、大方のメンバーは、「施設長のように鋼鉄の心ではなく、ガラスのような心です。」と、言い。みんなから攻撃されると、直ぐに、ガラスのハートだから粉々に崩れます。と言っていた。

私は、なるほどなぁと、妙に納得していました。

そして、その昭和15年生まれの彼は、「僕は行雲流水」でありたいです。」と、言います。なるほどです。己を知れば百戦危うからずも、行雲流水も、彼の生きざまにすればと、そこで、先ず己を知ることは、どういうことか。あの頃の、メンバーは、いつもいつも、他人と、比べた自分が存在していた。だから、常に、人と比較して自分が存在していた。だから、被害妄想だらけで、本物の自分が見えないでいた。だから、常に、自分の人生の主人公は誰かと、質問を繰り返ししていた。その道のりは、なかなかだった。自分で自己選択、自己チョイスが中々出来ず、いつも他人の性にしていた。やっと、自己責任が取れるようにはなったが、なかなか、だった。しかし、私は諦めることなく、言い続けた。長い長い年月が経った。

そんな昭和生まれの彼らは、ここ亀の子から居なくなった。今は昭和生まれでも、昭和後半うまれです。そして、平成生まれの彼達がやってきました。だから、今来ているメンバー達は、

もう、僕たちは、私たちは、自分の人生の主人公は自分です。と、堂々としているように、見えます。

ちょっと、「え。それって、我がままじぁないの❔」と、思うことも多々あります。だから、一人一人が、大人として成長して来ているのだと、見守り隊、縁の下の力持ちで、見守っているところです。