2022/05/12
今朝も、素晴らしい三瓶山が聳えています。雲が架かって、ベレー帽を被っているようです。私はこの頃、とてもとても、我が大田市のことが気になって仕方ないのです。と言うのは、どうも私は、毎日毎日、朝に目が覚めると、カーテンを開けて、三瓶山を拝します。どうして、ここに三瓶山があるのだろうか?いつから、この三瓶山は、存在していたのだろうか? 大田の町を通り、長久の地に、亀の子が存在している。一体勿体、この大田の町や、長久の町は、どのように、歴史を育んできたのだろうか? 平成から令和になり、世界規模で、疫病が蔓延して、中々、疫病退散は、叶わず、世界は混沌としている。そして、この地球船は、北欧のウクライナと、北シベリアのロシア連邦は、世界を巻き込んで、戦争状態を呈している。我が国は、国境が陸続きではないので、弛緩地帯が、海なので、その危機感は薄いのかもしれない。しかし、私は歴史書を見ると、この大田の町も、凄いことが分かった。それは、鎌倉時代の事だった、蒙古襲来に備えていたのだ。一度目が、文久の・1274年、二度目が弘安の役・1281年である。ここで、久手町の刺鹿の岩山城が出てくる。その菩提寺は、円光寺であるので、とても興味深い。そして、富山の要害山である、富山城(重蔵山)が出てくる。蒙古襲来の時には、日本海岸の大田市海岸の護りをしていたようだ。その頃は、毛利と、尼子、大内と、石見銀山争奪戦の時だったようだ。
となると、確実に、この大田の地も歴史の痕跡がしっかりと、根づいています。
ここ大田市の古代の道も、乗り物により、その道は、時代と共に、変遷してきたと言える。特に、明治以降は、大きく変わったと言える。
そうだろう。この地球も、コロンブスの新大陸発見も、航海の時代だった。この日本海も、通路は海路が便利だった。だから、日本海側の港町が玄関口となり、栄えた事だろう。玄関口が、港町で、そこから、特に我が町は、石見銀山の奥地に行くのには、陸路が整備された。となると、ここ大田市は、溢れるほどの、物語があるようだ。
しかし、悲しいかや、令和の現代人は、その物語を知らないし、興味がないのか、さみしい限りなのです。何故なのだろうか。
現代人、ゾンビー化(幽霊・志が抜けた人間)が、増えたのか?
摩訶不思議な事だ。さてさて、私は、そこにメスを入れたいと思う。
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