2019/08/27
秋雨前線の発生は、暖かい空気の塊と、冷たい空気の塊がぶつかった、その境目にできるものです。面白いですよ。梅雨前線は、秋雨前線とは逆で、下から押し上げていきます。上からくるか、下からくるか?面白いですね。うふふ。単純かもね。秋雨前線の別名は、日本人は、素敵な、呼び方をするのですよ。「秋霖(しゅうりん)」「秋入梅(あきついり)」「秋湿り(あきしめり)」「秋さずい」「秋の地雨(あきのじあめ)」なんか、日本って、いいなぁ。って、思いませんか。今朝のお気に入りブログを拝見です。何と、三瓶山を登山中にやぶ蚊にかまれたとか、赤い血潮が飛び散っています。俳句で披露されています。☆ 吾を刺し 南無阿弥陀仏 即死の蚊 (歩地爺)写真が載っておりとてもリアルでした。私も思わず、返歌です。☆ やぶ蚊にも 赤き血潮に 命の不思議 夢の中へと 心いざなう (亀婆)と。うふふ。遊んでいます。
さてさて、今日は、私の持論である、命の誕生の話をしたい。というのは、もう、10年も前に、鈴木健二さんの「老前」の生き方が「老後」の生き方を決める。老前は、人生の中で決断の花が咲く季節である。そのすべてが老後に実を結んでいく ローゼンの気くばり。。の中の一ページです。【卵子と精子が偶然と呼ぶにはあまりにも偶然過ぎる出会いによって受精卵となり、これまた偶然に子宮内に着床したときから、あなたは人間としての生命を営み始めた。健気にも胎児は子宮の羊水に浮かびながら、たった一人で、一日ごとに、一時間ごとに、一分ごとに、一秒ごとに、人間としての体をつくっていく。人間は二度生きる。一度はこの胎内で人間の体のすべてを作りながら生きる。そして、息を詰めて産道を通れぬけてこの世に誕生すると、そのままの体で一生生きる。死ぬまでの間、途中喜怒哀楽のさまざまな事柄が起ころうとも、あなたの生命は生き続ける。一人の人間が生きていくのである。事故によってこの命が失われてはいけないのである。ましてや国家から強制される戦争によって失うなどは言語道断であり、神も恐れぬ罪悪である。
生命を尊いものとして崇(あが)めていく精神が培(つちか)わなければならないのである。粗暴な振る舞いをする人を見ると、自分を粗末に扱っているなと感じる。その反対に、いつの時代にも社会においても決して変わることのない礼儀作法をきちんと心得ている人に出会うと、自分の内側にある生命を大事に大事に育てているという輝きが伝わってくる。生命を尊重するとは、同時に人格を大切に育てることと共通しているのである。「老前」とは、こうした命の光が外に本格的に出てくる時期なのである。群衆の中にいても、きらりと光る何かを持っている人はすぐにわかる。
よい思い出をたくさんもった人が、幸福な生涯を送った人であると私は信じている。そういう人は、恐らくいつも温かいほほえみをたたえた表情をして生きているに違いない。美しく老いたいと誰しも考えるが、それを実践できている人は、こうした表情が自然に滲(にじ)みでているのではあるまいか。それは女性でも男性でも同じである。
素敵でしょ。