2019/02/27
夕べは、ご近所のおばあさんが亡くなられ、お通夜に行ってきました。その時の、法話で「生は偶然・死は必然」と、紙に書いてお話してくださいました。私はこの時、はっ!としました。実は、今年に入ってから、大田高等学校の相生橋の取り換え工事で高校の四叉路の信号機の所が直通と、右折れの三叉路になっています。その右折れしたところの自動販売機の横の壁に、「生は偶然 死は必然 浄土真宗 ○○寺」と、貼ってありました。私は、「死は必然」は、そうだなぁと、思っていましたので、それは、解るのですが、「生は偶然」が、何とも、腑に落ちず頭を悩ましていました。それが、お通夜でお話してくださいましたので、どう話されるのか、とても感心をもって、聴きました。しかし、「生の偶然」については、無上甚深微妙法(むみょうじんじんみみょうのほうは)百千万劫難遭遇(ひゃくせんまんおうにも逢いおうがたし)我今見聞得受持(われいまけんもんし受持するを得たり)願わくは 如来真実の義を解せん(ねがわくは にょらいしんじつのぎをげせん)のどの宗派でも、この「開経偈」を称えます。というのは、人間として生まれて、今ここに生きていることが素晴らしいことなのですが、更に仏さまの教えに出会うことはとても稀で難しいことです。その有り難い教えに、今巡り合う良縁を大切にしましょう。ということなのですが、生の偶然性については、さらりと、いろいろな条件が重なった上で偶然に生まれたものだと、とても簡単にお話なさったので、なんか、するりと肩透かしにあったようでた。もう少し、命の誕生は、生まれるべきして誕生した尊い命なのだと、お話して下されば、私は合点し納得したかもしれないのに、少し残念だった。そして、今日のことです。今日は、いつも定期受診している大田市立病院でのことです。同じ脳神経外科でのことです。里の弟夫婦が居たのです。「え!どうしたの。いやぁ。転んで頭を打ったの。」「まぁ!偶然ね。私と逢うために、転んだのかもね。」実は、弟は、パーキンソン病にて、身体機能が不全なのです。60代なのですが、自分の病気を受容し認識していますので、とても前向きなのです。そんな会話でも、大笑いなのです。弟夫婦はとても仲良しなので、素敵な夫婦になったなぁと、嬉しい限りなのです。と、思うと、この「偶然」も、「必然」だったかなと、思う私がいます。