2017/08/02
この世は、間違いなく、人は「生老病死」として、生死の中に仏あれば生死なし、但生死即ち涅槃と心得て、生死として厭うべきもなく、涅槃としてねごうべきもなし、この時初めて生死を離るる分あり、唯一大事因縁と究尽すべし。『人身得ること難し、仏法値うこと希れなり、今我等宿善の助くるに依りて、己に受けがたき人身を受けたるのみに非ず、遇い難き仏法に値い奉れり、』この一節は、曹洞宗の修証義の第一章の総序なのです。そして、続きます。善身をいたずらにして露命を無常の風に任すること勿れ。無常憑(たの)み難し、知らず露命いかなる道の草に落ちん、~~「命は光陰に移されて暫くもとどめ難し、~」と、第二章の懺悔滅罪(さんげめつざい)に続き、第三章の受戒入位に、そして第四章の発願利生(ほつがんりしょう)へそして、第五章の行持報恩(ぎょうじほうおん)に続きます。我が家の、近くの、夫の子どものころからの気心の知れた一番の友の葬儀でした。夫とは、お互いに、「80歳までがんばろうな!」と、約束していたという。私も、なんと声をかければいいのか。何の慰めにもならない。しかし、夫は、しみじみと私に、「いやぁ!彼らしい生き様だった。筋の通った天晴れないい男だったなぁ。生きざまは死にざまだった。」と、話してくれた。そうね。私たちの行く道だものね。その夫の友は、実に社交的で、人望のある方だった。書家でもあるので、惜しみなく、町の祭りの絵馬も毎年に渡って書かれていた。町の遺跡の看板や案内書も彼の書道だった。小学校へは、書道教室として教えにでかけていた。私も、とんと昔の事なのですが、昭和63年の1988年の時でした、無認可共同作業所「ファミリーワーク」が、島根県で初めて補助金事業として認められることになり、彼に、大きな看板に「島根県・県単事業所ファミリーワーク」と、書いていただいたことがあった。あの時も、背筋がピンとして、公的事業をする覚悟が備わりましたね。
まだまだ、思い出は尽きないものです。夫にも、私にも、沢山の事でお世話になった恩人でした。
さてさて、明日から東京へ出張して来ます。この亀の子のつぶやきは、アイパットから送信するようにしますね。