2017/07/05
島根県の西部地方に出ました。ここ大田市はちょうど境目なのでしょうか。大丈夫なようです。しかし、NHKニュースでは、島根県に大雨特別警報が出されました。と、全国版で流れますので、県外の親族やお友達からは、安否を心配して電話や携帯やLAINが入ってきます。本当に、ようこそです。大難は小難に小難は無難に過ぎればいいなぁと思っています。今日は、久しぶりにお気に入りブログを見つけほっとしています。その中の一句を見つけました。西之原から登った三瓶山からの下界に西の原が見え、その向こうに浮き布池が見えるとても雄大な風景にうっとりします。三瓶山の野の花もいい感じです。その方のお仕舞いの一句なのですが、いい感じです。
☆ 笹ユリの 激励続く 三瓶山 笹ユリの健気に咲く姿が、悠久の時を超えて、応援メッセージを「人に自然に」繰り広げて姿は感動です。と思うと、オペラ・石見銀山の悠久の時を超えてと、繋がってしまいました。
あぁ!人は、悠久の時をこえて、幸せを感じることができるのだと思うと、至福の幸せを感じることが出来る。
しかし、現実の社会は、どうも、巧く行っていません。私はいつも温度差を感じています。
その昔、子供から大人に成長する段階で、色々なことを諦めたり、我慢したり、あるいは許したりしてきた。「負けて勝つ」「我慢・我慢」と、自分の欲望を我慢してきた。いつかお金を貯めて、あの事をしようと、夢を希望に変えていた。今は心を鍛える時だといって、時を待った。だから、欲望を抑えるのが昔は美徳だったような気がする。そして、人間としての根っこが育つのだと、時を待った。しかし、現代社会は、その根っこが育たないままに、大人に成った人が多いような気がしてならない。もったいないなぁと、思っています。どうしてなのだろう。
今は欲望がどんどん膨れ、それが満たさなければ、不幸だと感じる人がいる。もう、これで十分ですよということがない。私はお寺なので、嫁いでからは、沢山の禅語に出会い、「小欲知足」「清貧思想」など、学んできた。
なるべく欲を小さくして、自分の身の丈で、もう十分ですよと、足ることを学んできた。そして、おかげ様で生かさせて頂いている自分であることを実感できる。この精神力が衰え始めているような気がしてならない。そして、ヒマになったせいか、人が観念的になった気がしてならない。観念の奴隷にならないようにしたいものだ。
私は20年前にも、人間世界の不思議を思いつづった散文がある。
きずな~満天~
満天に 星きらめいて
大宇宙の神秘をものがたる
人の命も それに似ている
縁ありて 共に生きる喜びを
深く思う
あなたの手とわたしの手を重ねあい
共に この命を謳歌したい
誌 とみこ