2016/10/26
道元禅師の和歌集より
「峰の色 谷の響きも 皆ながら 吾が釈迦牟尼の 声と姿と」
先般、永平寺参拝し、法堂に参禅した。早朝の4時起床にて、まだ宵が明けない暗い中だった。
一般の寺院で言えば、本堂にあたります。須弥壇(しゅみだん)中央は藤原時代作の聖観世音菩薩(しょうかんぜおんぼさつ)を祀り中央階段のの左右には(阿吽・あうん)の白獅子が置かれています。永平寺の法堂は380畳敷もある。
我々参拝者は、その法堂で、沢山の僧侶、雲水さん達の諷経(ふぎん)が行われ、檀信徒の供養がなされた。檀信徒一人一人の名前を唱えられ先祖代々の供養がなされた。広い法堂は厳粛な荘厳な中に沢山のお坊様の勤経が流れ、大太鼓の音が響き渡る。なんとも言えぬ境地の中に我を忘れて、至福の中にいる我を見つめることができた。滅多に来ることも出来ない処に身を置くことが出来る有り難きご縁を結ばせてもらえる。何度も何度も噛みしめることができた。すると、当たりは、白々と闇がが開けてくる。しじまの中に、永平寺の七堂伽藍が鮮明に浮かびあがってくる。これまた、荘厳な精霊な気持ちに浸ることができる。そんな中で、道元禅師の坐禅御詠歌がよぎります。「濁りなき 心の水にすむ月は 波もくだけて 光とぞなる」が聞こえてくるようです。現代の我々には、その境地はなかなか難しいようです。それは、現世は、余りにも情報が氾濫し、人々は、その情報に流され、忙しい忙しいと、己を忘れています。そして、心は千々に乱れ、いつも、イライラと「心ここに非ず」の私達です。せめて、今からでも、静かに、心を整えることを、いたしましょうと、気づいたところです。
夜が白々と明けてくると、「峰の色 谷の響きも 皆ながら 吾が釈迦牟尼の 声と姿と」となる。清い透き通る、初夏の深山、幽谷、峰の輝きも、谷の水音も、全てが仏の悟った山水、今も峰々の稜線の輝き、谷川の水音が 永遠に響いています。
「因果の道理、歴然として私なし」天地の道理です。良いことをすれば良い結果。悪いことをすれば悪い結果。頑張れば頑張ったなりの結果。何もしなければ何もしなかったなりの結果。因果(原因と結果)の道理は、まことに明々白々、この世を貫通している真実です。廓然無聖(かくねんむしょう)風薫る五月です。気持ちのいいよく晴れた、一年の内でもっとも過ごしやすい季節です。すべてはカラリとして、そのまま、真理という特別なものではありません、基本的に一元論です。