また、ひとり旅立ちました。

2016/05/25

 うら若き乙女の頃に、日本舞踊を習い、お正月には、踊り初めが催され、振袖を着て、その祝の席にお出かけをしていた。そのお師匠様は、島根県知事恒松安夫氏の奥方だった。昭和40年代の頃のことである。あの頃は、大田市でも本格的な日本舞踊は物珍しかった。そんな珍しさもあり、新好きな私は、日本舞踊の虜になってしまった。チントンシャン♪ヨイヤナ♪カッポレカッポレ♪と、お師匠さんのお嬢様は、私と二つ下で、息も合い、夏の浴衣開きや、暮れの歳末チャリティでは、お嬢様と二人で踊った。そのお嬢様が逝ってしまった。その彼女は、私にとっては高嶺の花の憧れの人でもあったのだ。乙女の頃に彼女の家は、御殿の用だった。お父様の書斎は、びっしりと書籍が並んでいた。クリスマスケーキも、あの当時とても珍しかった。憧れのお嬢様は、いつもキラキラ輝いていたような気がしていた。それもそのはずで、私が大田高校三年生になったころ頃のこと、お嬢様は大田高校一年生で入学してきた。間もなくすると、私と同級生の龍岩君と、仲良くお手てつないで登下校が始まりました。昭和40年4月からのことです。私たちの青春時代が始まりました。そのお嬢様とその龍岩君は、とうとう結婚していたのです。そして、ご縁があるものなのですね。その龍岩君は、浜原の伯母と親戚だったのです。一昨年に伯母が亡くなった時に、その龍岩君と、彼女が伯母の葬儀に来てくれたのです。その時に、そのお嬢様(希み子)と、私は乙女の頃のお話をしました。本当に、今を精一杯生き切るって素敵だなぁなんていうお話をしたような気がします。いつかは、必ずや逝かねばなりませんね。

貴女は、私より一歩先に逝ったのね。私も精一杯、愉しく明るく生きますね。そして、いつかあの世で合いましょうね。