時の人に出会いました。2月23日のことでした。

2015/02/24

亀の子を立ち上げてから、もう20歳の成人式を迎えようとしています。私がまだまだ若かった頃、私のこころは、いつも満たされない心で、悶々としていた。頭の中は、いつも疑問視だらけだった。なぜ・どうして・へんだよ。おかしいよと、走馬灯のようにぐるぐると廻っていたような気がする。

20年前の12月25日のクリスマスの日の事だった。私は高禅寺の地区に無認可の共同作業所を建設しようと、寄付帳を病棟別にと、4冊こしらえ、家族会長さんと、一緒にお願いした。その寄付帳が4冊とも、夕方の5時頃に、相談室に届けられた。なんと、その寄附長は、4冊とも真っ白な白紙で帰って来た。

もう、悲しくて相談室のドアを閉め、ひとしきり泣きくれた。職員がみんな帰った夕暮れに、その病院の外に出た。真っ黒な夕闇の空にお星さまが輝いた。私のこころは、ここで決まった。「病院を辞めよう」と。

しかし、この決めたことは、しばらく伏せていた。平成7年1月19日には、高善寺地区に亀の子村ファミリーワークの竣工式を控えていた。その2日前に、淡路阪神大震災が起こった。テレビからの映像は、凄まじいものだった。長田地区は、炎に包まれ燃え盛っていた。竣工式には、最初に黙祷をささげ、進行した。そして、暮れに決めていたことを、実行に移した。まず、夫に了解を得ることだった。その時の、夫の落とし文句が、「この大田で、この私だけが、このメンバーを救うことができる人です。病院を辞めたいです。お願いします。」と、三つ指をついて、お願いしました。すると、お前がそれ程も思っているのなら、辞めてもいい。しかし、本当はお前がすることではなく、大田保健所がすることだし、大田市役所がすることだ。もちろん、病院がすることだと思う。と、明言しましたが、私のこの熱い想いをしっかり、受け入れ納得してくれました。

そして、この障害者福祉の仕事をすることとなりました。とんと困ったことは、私だけが、当事者を理解し「当事者が主人公の施設づくりをする」と、喚いても、らちがあくことではなかった。

まず、職員育成から始めた。4人から出発し、10人になり、15人になり、20人になり、30人になり、今は50人を超えてしまった。

その間、どう職員を育てていくのか、もう、必死だった。

実は、亀の子の印刷工房でお願いして、亀の子職員の教育書基礎編として、平成23年頃に冊子としてまとめて貰っていた。しかし、この書物は、素人集団なので、自信がなく、そのまま放置していた。

放置していたころ、平成24年7月に、法政大学の坂本教授の講演を聞き、日本で大切にしたい企業の中に、鹿児島のラグーナ出版があった。その出版は、精神障害者雇用の出版会社だったので、早速、その会社にメールを出して問い合わせをした。しかし、何かこころが進まなかった。見積書も、送ってきていたが、そのまま、手元において、躊躇していた。

そんな折、昨年の暮れ、理事長から、亀の子も20周年を迎えるので、記念誌を発行したいと、提言された。平成29年5月頃に、開催しようとのことだった。

すると、館長から、大田市で、ニッチノーマス会社の細田次郎さんが、そんな仕事をしていると紹介された。

私は、これこそ、的を得た、「時の人」だと、思い、メールを出し、早速、ついこの間の23日に来ていただいた。 若い方なのに、実に丁寧に、私の話を聞いてくれ、お願いすることとした。

こんなに身近に、おられれば、すぐに連絡が取れ、より、いいものが誕生するはずだと、得心したところです。ほんに、いいタイミングで、いい人に出会うものです。感謝感謝です。これを、時の人と言うのでしょうね。有り難い事です。そして、また、来月に打ち合わせがあり、より具体的に、物事が運びそうです。ほんとに嬉しい事です。「念ずれば花開く」って、こんなことかもしれませんね。