2015/02/05
「人間の悩みは、すべて対人関係の悩みである」アドラー心理学の根底に流れる概念です。
人間社会の中で、他者の存在を前提としていて、他者から切り離して生きることなど、原理的にありえない。個人だけで完結する悩み、いわゆる内面の悩みなどというものは存在しません。どんな種類の悩みであれ、そこにはかならず他者の影が介在しています。さぁ、どういうことでしょうかね。では、対人関係について、少し考えてみましょう。では、劣等感について、どう思いますか。それは同年代の人間が活躍しているのを見ると、どうしょうもなく劣等感を抱きますし、いったい自分はなにをやっているんだと、友達が幸せそうにしていると祝福する気持ちよりも、先に妬み焦燥感が出てくる。学歴や職業、それから年収など社会的な立場についても強い劣等感を持っている。アドラーは、劣等感の意味を、自らへの価値判断に関わる言葉としています。
と言うことは、自分に価値がないのだ。この程度の価値しかないのだ。といった感覚です。
では、劣等感についてお話ししましょう。
哲人 若者(青年)に質問しました。あなたは私を見て、どんな印象を持ちましたか。
青年 そうですね。想像していたよりも小柄な方だと思いました。
哲人 ありがとう。私の身長は155㎝です。アドラーもまた、これくらいの身長だったと思い ます。 まさに、青年の頃の私は身長について思い悩んでいました。そう思って、友人に相談したところ、彼は「くだらない」と一蹴りしたのです。「大きくなってどうする。お前には人をくつろがせる才能があるんだ」と。たしかに、大柄で屈強な男性は、それだけで相手を威圧してしまうところがあるかもしれません。一方、小柄な私であれば、相手も警戒心を解いてくれる。なるほど、小柄であることは自分にとっても周囲の人にとっても、好ましいことなのだと思わされました。つまり、価値の転換です。いまはもう、自分の身長を思い悩んでなどいません。
と言うことは、私の身長が「劣等性」ではなかった。ということです。
ようするに、問題は、その身長について私がどのような意味づけをほどこすか、どのような価値を与えるか、なのです。
青年は、では、つまり、我々を苦しめる「劣等感」は「客観的な事実」ではなく、「主観的な解釈」なのですか。
哲人 そのとおりです。 さぁ、だんだん面白くなりましたよ。
哲人