15日(土)は長久探検フォークでした。

2014/11/17

亀の子では、15日(土)は、長久町探検フォークがあり、亀の子は30名参加しました。今回は第7弾で、稲用の歴史と今を再発見として、大いに興味を持ったところでした。特に、私の生まれ育ったところですので、余計に興味津々でした。うふふ、歴史大好きなおばさんは、もう少女のように、張り切っていました。稲用の命名にしても、「なぜなぜマーク」でした。それも、うまく解説していただき、鎌倉時代に稲置の郷として、所領を役人が納めることとなり、姓もこの稲置をとり、稲用とした。その所領が現在の稲用、延里、土江、東用田、西用田と広大だったとか。300町歩、お城も小高い丘に稲用城を居城、同時代には、貴船山に浄土寺を建立した。それ以前には、この貴船山には八幡宮があったが、稲用八幡宮を北方面に移して、浄土寺を建てた。この浄土寺も本堂の向拝の柱が4本あるのは、とても珍しいことであった。大きなモミの木も見事なものだった。

私が少女時代、大祖母のお里のこの稲用に、稲用祭りの頃、必ず泊りに出かけた。だから、長久小学校から、ランドセルを背負って、稲用中の集落に行った。あのころは道路も泥道で、真っ直ぐではなかった。もう、あの面影は全くなく、すっかり変わっていた。実家の母親の親もこの稲用の出身だった。その母方の大祖母の家のお嫁さんが、この長久探検フォークに参加しておられ、思わず、二人で「懐かしいねェ」と、喜び合った。私の行っていた家は、もう跡形もなく、他の家が建っていた。私の知っていた、おじさん、おばさん、若夫婦も、病気で亡くなってしまった。私の子どもの頃の思い出は、私の心の中にあるだけになった。その近くの大きなお屋敷は、今もあった。そのお屋敷に小学校、中学校時代を過ごしたという、田平武さんがいた。実は、何年か前に、「あすてらす」にて、3人のトークショーをした折に、ご一緒したことがあり、懐かしいく思い出した。

探検ゲームとして、三択式で5問をした。今回、全問正解が60人いたと言うことで、50人に抽選された。亀の子の30名は、大方の方達が抽選で賞品をいただいた。私も、いただくことになった。