積善の家には必ず余慶あり反対に積悪の家には必ず余殃有り。

2022/01/12

正直は最善の策、、正直であることが目的を果たすために最も良い策です。

私は、歳を重ねて来たからこそ、見えてくるものが、はっきりと見えるようになりましたね。

そして、それは私が五歳の時に母から言われた、「我が家の宝物だからな」も、「積善の家には必ず余慶あり」が見えてくるような気がします。ここ亀の子が建っている場所も、お里の土地でした。竣工式の時にも、お里の土地でしたのに、お里の親戚は誰一人文句を言う人がいませんでした。親戚一同が皆賛同していました。あの当時、世間では、親族の遺産相続で険悪な関係になる処が有りました。なので、「貴女の所は、親族は皆さん協力的で恵まれていますね」と、羨ましがられました。私は、あの当時、母親から、「この土地は仏さまの土地を、私達が作らせて頂いた土地です。今度は、貴女にこの土地を、渡します。仏さまにお返しします。」「仏さまを、汚すような事をしないで欲しいです。」「いい加減な気持ちでしないことです。」「命をかけて、宜しくお願いしますよ」だった。

そうか。こうして、此処まで来られたのも、「善行を積み重ねた家では、その福慶の余尺が必ず子孫に及ぶ。不善を積み重ねた家では、その災禍がひいて必ず子孫に及ぶ。」善行を積み重ねて良い教育を続ければ、必ずや世の人々に賞賛されるような人材がその家から出るだろう。一個人がいいことをしたからと言ってその人にすぐ福が舞い込むということではない。善行を重ねる家には長期的にみて必ず、良いことが起こる事を言っているのです。要は、家族ぐるみの集団的長期的善行は必ず報いられるという真理です。

という事は、ご先祖様方の生き様を通して、たまたま、今のこの事業を、ご先祖様の善行の御恩に感謝して、善行を積ませていただくことになるのです。となると、とてもとても、有難いことだと思いませんか。

本当に不思議なことなのです。 亀の子のメンバーのなかにも、親子のご縁を大切にする人と、しない人とに分かれます。どうも、このコロナ禍の中で、「人生とは何か?」「生きる意味とは?」を一人一人が、見つめ直す時だぞ!!と、問われている気がする。そして、目に見えないものが大切なのだぞ !!

「大切なものは、見えない」瀬戸内寂聴さんの曰く、最澄の言葉で「己を忘れて他を利するは、慈悲の極みなり」で、「己を忘れる」とは、自分の都合や損得勘定を離れて、純粋に相手の立場たって物事を見、対処していく態度生き方をいいます。私達の日常的な「愛」は自分本位なあり方に染められています。仏教では、「愛」は、煩悩であるという考え方が一貫しています。

だから、打算的な「愛」に対して、仏教では「慈悲」を唱えます。「慈悲」という「いつくしみ悲しむ心」が本当のやさしさや思いやりであり、私達の「愛」のめざす方向だと言えます。

どうも、現代人、「愛情」の取り方を、間違っている人が多くいるような気がしてなりません。