江戸幕府VS海外スパイ~関ケ原の戦いにもキリシタン(切支丹)武将

2023/05/23

伴天連追放令を秀吉が出した。その本質は、宣教師とポルトガル商人は奴隷売買をやめろと。奴隷売買をやめないなら布教を厳禁するぞと、ということは、奴隷売買をやめるなら布教はまぁ黙認してやるぞ。これが伴天連追放令というものの本質でした。イエズス会は布教を何とかやりたいので、奴隷は禁止します。ということを決めた。だから、それ以来日本人奴隷売買はなくなった。だから、秀吉は奴隷解放の父と呼ばれています。1591年の事です。アメリカ大統領リンカーン1863年に奴隷解放を宣言していますが、もう、既に秀吉は、その272年前の1591年だったのです。日本は、既に人権意識が高かったのです。

しかし、関ケ原の戦いは、東軍と西軍での戦いだったのですが、東軍が勝ったのですが、西軍の中には、切支丹武将がおりました。宇喜多秀家の部隊長が明石全登という人だったのですが、切支丹は自決をしないで、戦場から離脱して、分からなくなっていたのです。そのために、徳川家康は、再度、伴天連追放令を出しました。キリスト教の禁止令を出し、伏見や大阪や長崎にいた宣教師は国外に追放された。日本人教徒については、改宗したひとはオッケー、棄教しない人は国外追放となった。高山右近と内藤如安は、マニラに追放された。関ケ原の戦いは、1600年10月21日(安土桃山時代の慶長5年9月15日)なので、関ケ原の戦いから、14年経った時に、大坂の冬の陣が1614年11月から12月。夏の陣が1615年4月~5月の時にも、多くのキリシタン武将が、大阪城に入った。宣教師のルイス・ソテロが記憶を残していますが、「多くのキリシタンが秀頼君に対して、「もしキリスト教を認めて教会を建ててキリシタンを支援してくれるのなら、戦争に協力しよう」と申し出たところ、秀頼さまはその要求を許可した」という記録が残っています。

関ケ原で行方不明になった、明石全登もキリシタン武士の8割に当たる8000人を指揮していました。この人は、戦死もしなければ、自決もしないで、再び世の中に紛れて姿をくらましました。

いやはや、スペインの日本征服計画はあの手この手で勧められて来ていた。家光の時代に島原の乱が発生し、キリスト教は徳川政権を揺るがす元凶であると考えていましたので、キリスト教を強く警戒しました。

徳川家康、~家光と受け継がれ、平戸にあったオランダ商館は長崎の出島へ移った。、そして鎖国が完成したわけです。そして対外封鎖により、経済発展をするのが江戸システムだったのです。

戦後の私たちは、このような史実は学んでいませんでしたね。