お早うございます。すっかり秋色ですよ。赤い実があっちこっちに、見てねと。

2021/09/27

私は、なるほどと感心した記事を見つけた。山陰中央新報の9月26日の新聞だった。羅針盤のコーナーで、哲学者の内山節氏だった。『江戸時代の「国」は、人に認められ生まれる誇り』とあり、30年前に内山氏が、東北のある村役場を訪ねた時のことだった。 30年前という事は、1990年のことで、平成2年の頃である。昭和天皇が崩御されて、今の上皇様の平成になって直前の頃だった。この頃から、日本はグローバリズムの提唱が叫ばれだした。国民も、そのグローバリズムに飲み込まれて行った時代だった。

村長さんが、「不可能な希望を言ってもいいというならと、話したいと」すると、「江戸時代に戻りたいと」この村の江戸時代の人々は、いまよりずっと慎ましい生活をしていた。「だがその頃の村民の方が、誇り高く生きていた。現在ではお金を得るために誇りを持てない仕事に従事し、まるで昔の農耕馬のように働かされている。この地域で暮らす誇りも薄くなった。役場は住民がつくるものではなくなって、国の末端機関のようになってしまった。江戸時代の村民の方が、自分たちの地域で暮らしているという誇りをもっていた。」江戸時代の「国」は日本国を意味する言葉ではなく、自分たちの暮らす藩や地域、郷里などを指す言葉だった。それぞれの地域が、自立した「国」をつくっていたのである。 明治時代になって日本に近代社会がつくられてくると、地域の在り方も、私たちの暮らし方も大きく変わっていった。大きなものにのみ込まれながら暮らすようになったのである。地域は主権を失い、国と言う大きな機関が支配者のようにふるまうようになった。それまでは、農民であれ、商人や職人であれ、それぞれが自分の仕事を持ち、自分の技に誇りを持って働いていたけれど、現在では多くの人々が資本主義という大きなシステムにのみこまれて働き、消費する生活を送っている。それは便利な社会をつくりだしたが、東北の一人の村長には、人々が誇りを失っていくように感じられていた。

誇りとは、人々が認めてくれるからこそ生まれるものである。よい仕事をすると人々が認めてくれるから、誇り高い仕事人が生まれるように。地域の誇りも、他の地域の人々がその地域の素晴らしさを認めてくれるからつくられていく。

誇りを失った時、人も地域も何もかも喪失していく。とすると現在の私たちの課題は、誰もが誇り高く暮らし、どこに行っても誇り高い地域がある。そんな社会を再創造していくことだろう。その為に何を改革していかなければいけないのか。現在の私たちには、そのことが問われ続けているのかもしれない。